障害者が「最先端」になる未来の話
ふと思った。
障害児を育ててる親って、
最終的に
「この子が働けるカフェをつくりたい」
みたいな構想にたどり着く人、けっこう多くない?☕️
もちろん全員ではないけど、なんとなくひとつの王道ルートみたいになってる気がする。
でもこれって、考えてみればすごく自然なことなんやろなぁと思った。
目の前に大切な子がいる。
この子に生きていてほしい。
できれば幸せに生きていてほしい。
でも、この子が大人になったとき、今ある社会の中にちょうどいい場所がないかもしれない。
だったら、
この子が生きられる場所を、自分でつくろう。
そうなるんやろなぁ。
「社会を変えたい!」みたいな大義から始まるんじゃない。
「この子のために」
という、ものすごく個人的な熱から始まる。
でも、その個人的な熱が、結果として社会を変えていく。
「この子どうすんねん」が制度をつくってきた
昔は「授産施設」というものがあった。
「授産」。
仕事や生業を「授ける」。
今見ると、
授けるて!!!🤣
となる名前なんやけど、これもきっと、その時代では前進だったんやと思う。
さらに、既存の制度や施設だけでは居場所を得られなかった人たちのために、障害のある本人や親、支援者たちが地域で「共同作業所」をつくっていった歴史がある。
今の就労継続支援B型などにつながっていく流れのひとつだ。
つまり、
「この子らが働ける場所がない。ほな、つくろう」
と動いた人たちがいた。
その時代には、今ほど「自己決定」だの「インクルージョン」だのという言葉が当たり前ではなかった。
そんな時代に、
「この子にも働く場所を」
「家の中だけで人生を終わらせたくない」
「地域の中で生きられる場所を」
と思って、実際に動いた人たちがいた。
もう、先人たちの魂の強さには頭が上がらない。
🙏🙏🙏
そして面白いのは、
その人たちが道をつくってくれたからこそ、私たちはその先に違和感を持てる
ということ。
「授けるってなんやねん🤣」
と言えるのも、その地点まで社会を進めてくれた人たちがいるからだ。
でも、カフェもまだ「働く場所」なんよな
そして今。
「障害のある人が働けるカフェをつくりたい」
という発想は、とても素敵だと思う。
カフェっていろんな仕事がある。
料理する人。
運ぶ人。
洗う人。
掃除する人。
ものを作る人。
接客する人。
仕事を細かく分けられるし、地域の人も自然に入ってこられる。
「福祉施設」という閉じた場所ではなく、いろんな人が日常の中で混ざれる場所にもできる。
だから障害児の親がカフェにたどり着くのも、すごくわかる。
でも。
ふと思った。
それでもまだ、「働く場所をつくる」という概念の中にはいるんよな。
ここから先、どうなるんやろう?
と思った瞬間、めちゃくちゃワクワクしてきた。
だってもう、
AIが出てきてる。
「何ができる人?」が重要じゃなくなるとしたら
これまでの社会では、
速くできる。
たくさんできる。
一人でできる。
効率よくできる。
お金を稼げる。
そういう能力が、とても高く評価されてきた。
だから人間の価値と「労働能力」が、ものすごくくっつきやすかった。
そして、その物差しにうまく乗らない人が「障害者」として社会の端っこに置かれてきた部分もあると思う。
でもさ。
そのへん、AIやロボットがめっちゃ得意やん。
人間より速くて、正確で、疲れなくて、膨大な情報を処理できる存在がどんどん社会に入ってきたら、
逆に人間には何が残るんやろう?
その人固有の感じ方。
その人がいることで生まれる関係性。
予測不能さ。
人と人をつなぐこと。
一緒にいることで、なぜかわからないけど場が変わること。
その人にしか見えていない世界。
……
あれ???
そこって、
今まで「障害」と呼ばれてきた人たちが、とっくに生きてきた領域じゃない???
障害者って、実は最先端なんじゃないか
私はずっと、娘をはじめ障害のある人たちを見ながら、
「この人たち、最先端なんちゃうか」
と思うことがあった。
もちろん「障害があるから素晴らしい」という単純な美化をしたいわけではない。
困ることは困るし、本人にとって大変なことだって当然ある。
そうじゃなくて、
今の社会がまだ「価値」として換算する方法を持っていないものを、先に生きている人たちなんじゃないか。
と思うのだ。
今はまだ、
「障害者のために何ができる?」
という問いがある。
でも未来では、その問い自体が古くなるのかもしれない。
「障害があっても働ける社会に」
でもなく、
「障害者も活躍できる社会に」
でもなく。
まさかの、
「障害者の在り方、今いちばんエモくない?」
みたいになったりして🤣
「え、まだ生産性とか言ってんの?」
「一人で全部できることが自立?古ない?」
「その人がいることで何が起きるかのほうがおもろいやん」
みたいな。
そして100年後、
「え!?障害者と関わったことないん!?モグリやで?」
って言われてたりして🤣🤣🤣
そうなると、婚活まで変わってくる
ここまで考えて、
あ。
これ、婚活も全部変わるやん。
と思った。
今の婚活って、かなり「条件」が大きい。
年収。
職業。
年齢。
容姿。
家事能力。
生活力。
子どもを望むかどうか。
つまりある意味、
「この人は共同生活を運営する人材としてどうですか?」
という評価でもある。
でも、生活を維持するための実務をAIやテクノロジーや地域やいろんな人に分散できるようになったら?
「何ができる人なのか」の重要度が下がったら?
結婚相手を見るときも、
「この人は条件を満たしているか?」
じゃなく、
「この人と私が一緒にいると、どんな世界が生まれる?」
になっていくのかもしれない。
そうなったら婚活は、
条件に合う人間を探す市場ではなく、
人と人を出会わせて、そこで起きる化学反応を見る場所
になる。
めっちゃおもろいやん。
社会そのものが「ごえんむすび」になる
そして、これは婚活だけじゃない。
人 × 人。
人 × 場所。
人 × 自然。
人 × AI。
障害 × 地域。
子ども × お年寄り。
得意 × 困りごと。
空き家 × 居場所。
「この人を、既存のどのカテゴリーに入れよう?」
じゃなく、
「これとこれを出会わせたら、何が起こる?」
という社会。
そう考えると、
社会そのものが巨大な「ごえんむすび」になる。
そしてカフェも、
「障害者が働ける場所」
ではなくなる。
子どもが遊んでいる。
誰かはコーヒーを淹れている。
誰かは絵を描いている。
誰かは仕事をしている。
誰かはAIと何か作っている。
おばあちゃんが喋っている。
誰かは昼寝している。
障害のある人もない人もいて、
何をしているのか説明できない人もいる。
でも、
そこに人がいることで、何かが起きている。
それをもう「福祉施設」と呼ぶ必要もないし、「就労施設」と呼ぶ必要もない。
もしかしたら「カフェ」とすら呼ばなくなる。
ただ、
「場」
なのかもしれない。
障害のある子を育てる親は、
「この子が生きられる場所はどこだろう」
という問いを、他の人より少し早く、少し具体的に突きつけられる。
それは大変なことでもあるけれど、
私は最近、
未来の社会を先に考えざるを得ないという、ある種の特権でもあるのかもしれない
と思っている。
この子のために社会をどう変えよう?
ではなく。
そもそも、
この子たちがすでに生きている在り方のほうへ、社会がこれから近づいていくんじゃない?
って。
もしそうなら。
めちゃくちゃ見てみたい。
そんな世界。
というか、
私はそっちに行きたい。
絶対そっちのほうがおもろそうやもん🤣🔥
そして、まだその世界には名前がない。
だからしばらく、
この妄想を心して深掘ってみようと思う。

