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忠臣蔵という物語に、少し違和感を覚える

【2011】



「忠臣蔵」という物語をご存じでしょうか。

これは今から約300年前に起きた「赤穂事件」をもとにした話で、大石良雄を中心とする47人の赤穂浪士たちが、主君・浅野長矩の仇を討つため、吉良義央を討ち取るという筋書きです。

「主君に尽くす忠義」を貫いた彼らの姿は、日本人の心を打つものとして、芝居や映画、ドラマなど、さまざまな形で語り継がれてきました。

けれど私は、この物語に少し違和感を覚えることがあります──。



事件の背景を簡単にたどってみます。

江戸幕府では毎年1月、天皇に対する「年賀のあいさつ」として将軍の代理を京都へ送り、その返礼として、3月には天皇側から「勅使」が江戸へ派遣されていました。

赤穂藩主・浅野長矩は、この勅使接待の役目に選ばれます。

格式ある重要な儀式であり、失敗は許されません。

そこで、儀式作法の専門家として任命されたのが吉良義央。

彼が浅野に接待の作法を教える立場となりました。

ところがある日、浅野は江戸城内で吉良に斬りかかります。

「この間の遺恨、覚えたるか!」

そう叫びながら刀を抜き、吉良に傷を負わせたのです。

幕府はこの行動に激怒し、浅野には即日切腹を命じ、赤穂藩も取り潰しに。

一方、吉良側には何の処分も下されませんでした。

この対応に納得できなかった赤穂の家臣たちは、約1年後、吉良邸に討ち入り、吉良を殺害します。



この一連の流れが「忠義の物語」として語られてきましたが、私はどうしても疑問を抱いてしまいます。

そもそも浅野が斬りかかった「理由」は、はっきりしていません。

一説には「賄賂を贈らなかったことで吉良から嫌がらせを受けた」とも言われていますが、すべては後世の推測にすぎません。

吉良本人は、「恨まれる覚えはない」と供述しています。

仮に吉良が厳しい態度をとっていたとしても、この接待が失敗に終われば、吉良自身も責任を問われる立場だったはず。

だからこそ、作法の指導は厳しかったのかもしれません。



人間関係では、ときに理不尽なことを言われたり、腹が立つような扱いを受けることもあります。

その感情を抱くこと自体は、きっと誰にでもあることです。

でも、だからといって人を傷つけていい理由にはなりません。

何があったのか、どちらが正しかったのか――

それは、もはや当事者にしかわからないことです。

けれど少なくとも、「怒り」に突き動かされて命を奪ってしまう行為が、正当化されるべきではないと私は思います。



吉良義央は、理由も明確にされないまま二度も襲われ、その後も長く「悪者」として語られてきました。

事件のあと、吉良家は滅亡しました。



誰しも、怒りや理不尽に直面することがあります。

けれど、「カッとなったときこそ、まず落ち着く」。

そして、たとえ相手に非があったとしても、そこにどんな事情があったのか、話し合いの余地はなかったのか――

そんなふうに立ち止まって考えることが、悲劇を防ぐ唯一の手段なのではないかと思います。


─── 🦌 Art of self defense   生きづらさの中でも、自分らしく立っているために。  

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