ビザンツ帝国の社会と文化
キリスト教会とギリシア文化
・451年のカルケドン公会議で教会の組織原則を確立。
・5の総主教座とそれぞれの管轄地域を決定。
羅、君府、アレクサンドリア、アンティオキア、イェルサレム
・希を含むイリュリクム道は羅教皇の管轄に。
・テッサロニキ大主教が教皇代理。
・後期羅帝時代は正統教義が形成されていった。
=異端の排除
・コンスタンティヌス1世の時代に三位一体問題で係争。
・325年の第1回ニカイア公会議でアリウス派が異端に。
・5世紀にはキリストの人性と神性を巡る争いが発生。
・431年のエフェソス公会議で両性論が主流に。
・以後も単性論は埃やシリアで信仰を維持。
・パウロの時代には希にも教会。
・初期の基教史で希は大きな役割は果たさず。
・教義論争でも希の教会は目立った発言はない。
・「希教父」と呼ばれた人々の多くも希出身者は少数。
・修道院制度も希では発展が遅れた。
・アテネのプラトン学園が異教の学問の拠点として最後まで残った。
新プラトン哲学が中心
・3世紀の混乱の時代にも活動を継続。
・267年にはゴート人がアテネを略奪。
・しかし図書館の書物は焼き払わず。
・後2世紀からの第2ソフィストが基教と希文化の融合を進めた。
=都市・宮廷と深く結びついた希文学運動
・基教の国教化後も、政府はアカデメイアの存続を許した。
・529年、ユスティニアヌス1世は異教徒が教育することを禁じる法を発布。
在位:527~565年
・アテネのアカデメイアが主眼。
・この後もアカデメイアは活動を続けたらしい。
・6世紀の後半、アヴァール人・スラブ人の侵入により文化活動が大きく後退。
都市の破壊で古典の研究、写本の作成が途絶える
・7世紀にはアラブ人の侵入で文化的にも暗黒時代へ。
聖像崇拝問題とギリシア文化の暗黒時代
・単性論が有力なシリア・埃がアラブに奪われることで論争状態は解消。
・680年の第6回公会議で最終的に両性論が正統教義に。
・続いて羅教会と対立。
・691~692年の宗教会議で東西対立が見られるように。
・8世紀には聖像崇拝問題で対立。
・基教は猶教から偶像崇拝の禁止を継承。
・希羅世界への拡大の過程で崇拝は浸透。
・同時にこれへの批判も拡大。
・聖画像を巡る協議上の対立も激化。
・726年に皇帝レオン3世が聖像崇拝への反対を表明。
・730年には聖像崇拝を禁じる勅令を発布。
・希では既に聖像崇拝が浸透し、激しく反発。
・727年にはヘラス軍管区で反乱。
・反乱は簡単に鎮圧。
・731年に教皇は聖画像破壊派の破門を宣言。
・これに対抗するレオン3世の措置として、イリュリクム教会管区は君府総主教の管轄に。
・コンスタンティノス5世時代に聖画像破壊運動は激化。
741~775年
・754年に彼が主催したヒエレイア宗教会議で聖像崇拝を異端と断じた。
・760年代にこれに基づき崇拝派への迫害が始まる。
・小亜で特に激化。
・崇拝派の拠点、修道院が攻撃された。
・775年にコンスタンティノス5世が没すると聖像破壊運動は一旦は収束。
・787年の第7回会議でエイレーネーが聖像崇拝の復活を行った。
コンスタンティノス6世の母で摂政
・815~843年にも聖像崇拝は禁止。
・修道士が迫害された。
・今回の運動はほぼ君府に限られた。
・また、第1次運動よりも徹底されなかった。
・843年には最終的な聖像崇拝の復活が宣言。
・速やかに破壊派は消失。
・11世紀末のボゴミール派の出現までビザンツは深刻な異端問題を経験せず。
・7~8世紀にアラブ人・スラブ人により希文化も暗黒時代に。
・この時期の写本は全く伝わっていない。
・結果として、多くの作品が失われた。
・創造的な活動も停滞。
・6世紀半ばのプロコピオスの後は歴史学も衰退へ。
帝国の伝統主義と結びついてビザンツ人の関心が特に高かった分野にもかかわらず
・7世紀初めのテオフュラクトス・シモカッテスの「歴史」が最後に約200年の空白に。
・7世紀半ば以降はアテネの都市自体への言及が消える。
・国家・都市の衰退は美術や特に建築で否定的影響。
・8世紀末のテッサロニキの聖ソフィア聖堂が唯一の目立った建築。
・8世紀半ばに異民族の侵入は収束。
・学問・文化環境はすぐには改善されず。
・聖像破壊運動も総じて文化を破壊。
・8世紀末~9世紀の初めに散逸した古典作品の収集が始める。
・学芸活動も再開。
盛期ビザンツ時代の文化と教会
・9世紀から使われるようになった小文字によって写本の作成は促された。
・早く書け、用紙も節約できるように。
・9~12世紀の盛期ビザンツ時代の希は文化面ではさほど目立たない。
・この時期の文化は君府中心。
・皇帝専制国家という性質が宮廷文化として現れた。
・9世紀における学問・教育活動の再開自体も国家との結びつきの強い分野から始まった。
・10世紀のマケドニア朝ルネサンスもコンスタンティノス7世の宮廷を中心に展開した。
これは古典の収集や模倣が中心
創造性に欠けるとの批判も
しかし古典の収集を通じて今日に伝えたという点で功績は大きい
・11世紀に入って宮廷から都市・市民に文化活動は拡大。
・それでも依然、君府が中心。
・12世紀の文化・芸術活動は「コムネノス朝ルネサンス」とも。
・12世紀半ばのテオドロス・プロドロモスが俗語による作詩。
宮廷詩人として伝統的な讃美演説も
・12世紀末になって希に学問・芸術が盛んに。
・聖像破壊運動が終わった9世紀半ば~11世紀末に深刻な異端問題は経験せず。
・破壊運動を通じて宗教問題でも皇帝が最高の権限を持つという理念が確立。
・それでも総じて皇帝専制下の宗教政策は寛容。
・内乱の時代を経てコムネノス王朝時代になり、この寛容性は失われた。
・アレクシオス1世は希哲学を追求したイタロスを処刑。
・ボゴミール異端にも厳しく処置。
・9世紀半ばのモラヴィア伝道がビザンツ教会による最初の大規模な布教活動に。
・その拠点がテッサロニキ。
・コンスタンティノスとメトディオスの兄弟がグラゴール文字を発明。
=キリル文字の原型
2人はテッサロニキの出身
町の周辺には当時なお多くのスラブ人が居住
そこでスラブ人の言葉が分かった
・モラヴィア伝道に先立って、聖書や典礼書をこれで著した。
・モラヴィア伝道自体は失敗。
・9世紀半ばに勃、セルビアがビザンツから基教を受容。
・10世紀には露にも基教は拡大。
・988年にキエフ公ウラジーミルが正教に改宗。
・1054年に東西の教会は最終的に分裂。
・羅教皇と君府総主教は相互に破門を宣言。
・963年、ニケフォロス2世の援助でアトス山にラウラ修道院が設立。
・これに続きアトスでは次々と修道院を設立。
・11世紀には希各地でも修道院。
中世末期の社会と教会
・中世末期の希農村では隷属農民を使用する貴族の大所領が広がっていた。
・プロノイア制度がミカエル8世以降、世襲化。
国家が土地を農民を軍人に与えた制度
・これにより大土地所有が進んだ。
・中世末の希農業は伊商人の交易活動と結びついた。
・クレタ島では油、チーズ、綿、果物などが輸出向けに生産。
ヴェネツィアの直接支配下
葡萄酒は特に広く輸出された
モルドヴァ、南波、フランドル、イングランド
・帝国や十字軍国家の下でもテッサリアの穀物やペロポネソスの葡萄酒が伊に輸出された。
・エペイロスでもヴェネツィア商人、ドヴロブニク商人が活発に活動。
アルタは穀物・塩の集散地として繁栄
・13~15世紀の希ではヴェネツィアのドゥカット金貨が国際通貨に。
・希の地域内交易も伊商人が掌握。
・地中海の広域交易網に組み込まれることで都市の手工業は発展。
テーベの絹織物など
・クレタ島の商業文書からは希商人の活動が時代と共に増加したことが分かる。
・諸勢力の活動の中で希の各都市は特権の拡大を図った。
・第4回十字軍に城門を開く時に都市は自由と独立の保障を得た。
・ビ帝国領に戻る時も、特権の確認を条件にした。
・1246年、ヨハネス3世はマケドニアを併合する時、諸都市に特権を認めた。
・希では都市の特権は自治の成立には繋がらなかった。
・土地所有貴族と商工業市民の利害の対立がこれを阻んだ。
・14世紀半ばの内乱でこの対立は表面化した。
・テッサロニキでは熱心党を中心に市民たちが反貴族暴動で独立政権を樹立。
・カンタクゼノスの貴族勢力に鎮圧されるまで7年間存続。
・末期ビ帝国の国内の主要な宗教問題は静寂主義。
神秘主義の流れを継ぐもの
14世紀にグレゴリオス・パラマスが体系化
=アトス山の修道士
神との直接的な合一を説くもの
(スーフィズムとの関連は明らかである)
・1341年に教会会議で公認。
異端の疑いを受けてもいた
・カンタクゼノス派も支持。
・彼の失脚後も地位を失わなかった。
・1204年の十字軍の征服後、君府にはカトリックが総主教座を設置。
形式上、東西は合同
・希人は強く反発し、正教信仰を守った。
・ニカイア帝国は独自に総主教を設置。
・セルビア教会なども権威を認めた。
・1261年のビザンツ帝国の再建後、ビ帝国側から東西教会の合同を政治問題として提起。
・1275年にはミカエル8世がリヨン公会議で教会合同。
シャルル・ダンジューの君府征服計画に対抗する為
・1438~39年にフィレンツェ公会議でも合同。
オスマン帝国への西欧からの援軍を求めてなされた
・いずれも民衆が激しく反発したことで実効力はなかった。
パライオロゴス朝ルネサンス
・1204年の君府陥落時に多数の写本が焼かれた。
・第2の羅が失ったことでビザンツ人はアイデンティティを「羅帝国」から希文化へと移行させ始めた。
・パライオロゴス朝は文芸や美術で希文化の復興を軸に優れた成果を遺した。
・14世紀前半の君府でルネサンスは始まった。
・アンドロニコス2世の文芸保護の下で文人が希古典の収集と研究に従事。
・テオドロス・メトキテスが君府のコーラ修道院を再建。
・大きな図書館を備え、学問活動の中心に。
・ルネサンスは地方都市にも波及。
・14世紀半ばの内乱でルネサンスは一度中断。
・15世紀前半にルネサンスの舞台は平和が続いたミストラに。
・1410年頃に哲学者ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンがここに。
・彼を中心に文人のサークルに。
・これでミストラがビザンツ文化の中心に。
・彼はプラトン哲学に傾倒することで正教信仰から徐々に乖離。
・ミストラでは教会、修道院、図書館も建設。
・帝国の衰退は高価なモザイクの制作を許容しなくなった。
・それでもフレスコ画を中心にパライオロゴス朝絵画が開花。
・この時期には俗語で書かれた作品も増加。
・恋愛や冒険が物語の主題に。
・パライオロゴス朝時代には文化的にも西欧との交流が深化。
「モレア年代記」は仏語、伊語、アラゴン語版も伝わる
・伊ルネサンスとビザンツのルネサンスは相互に影響を与えた。
・ミストラ以外の希地域では文化活動は低調。
・クレタ島はオスマン帝国に追われた文人たちを受け入れた。
・希語写本作成の中心地に。
・希古典文化がビザンツから西欧に伝わるに当たり、クレタ島が中継地として重要な役割を果たした。
