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『モーターサイクル・ダイアリーズ』―チェ・ゲバラは、いつ革命家になったのか <映画考察>


チェ・ゲバラ

今では、Tシャツになり、ポスターになり、ついにはタバコのパッケージにまでなってしまった男、チェ・ゲバラ。

黒いベレー帽。
赤い星。
遠くを見つめる顔。

その肖像はあまりにも有名になりすぎて、革命という言葉からさえ切り離され、一つのデザインとして世界中を漂っている。

街を歩けばTシャツの胸にいる。雑貨にもいる。ポスターにもいる。そしてタバコのパッケージにさえ、その顔は印刷されている。

彼が何を考え、何のために戦い、何を目指し、最後にどこで死んだのかを知らなくても、その顔だけは知っているという人も多いだろう。

ある意味では、資本主義社会を変えようとした革命家が、死後、もっとも分かりやすい「商品」になってしまった。

この皮肉だけでも、チェ・ゲバラという人物は不思議である。

けれど、その「チェ・ゲバラ」は最初から存在していたわけではない。

革命家は、いつ革命家になるのだろう。

銃を持った瞬間なのか。
政府軍に向かって最初の一発を撃ったときなのか。
それとも、自分の思想を「革命」と呼び始めたときなのか。

『モーターサイクル・ダイアリーズ』を観ていると、その始まりはもっと前にあったのではないかと思えてくる。

映画に登場するのは、まだ「チェ」と呼ばれる以前のエルネスト・ゲバラだ。

23歳の医学生だった彼は、友人アルベルト・グラナードと古びたバイク「ポデローサ号」にまたがり、南米大陸を北へ向かう。

旅の始まりに革命はない。

恋人がいる。
冗談を言う。
女性に目を奪われる。
金もないのに、どうにかなると思っている。

そこにいるのは、後世に肖像画となり、世界中へ拡散していく革命家ではない。

まだ何者でもない、一人の若者である。

だからこそ、この映画は面白い。

私たちは彼が後にチェ・ゲバラになることを知っている。

しかし、映画の中のエルネストだけがそれを知らない。

そのため、一つ一つの出会いが「革命家チェ・ゲバラの伝説」ではなく、一人の青年の内部に少しずつ蓄積していく違和感として描かれていく。

バイクが壊れてから、本当の旅が始まる

タイトルにもなっているモーターサイクルは、映画の途中で壊れてしまう。

これは単なる旅のトラブルではないように思う。

旅の前半で二人はバイクに乗り、南米の風景をものすごい速度で通過していく。

バイクに乗っている限り、彼らは旅行者だ。

風景を眺め、町へ立ち寄り、また次の場所へ向かう。

つまり彼らは、世界を「見る側」にいる。

ところがポデローサ号を失うと、旅の速度が落ちる。

歩かなければならない。

他人の車に乗せてもらわなければならない。

食事を恵んでもらうこともある。

知らない人間の暮らしの中へ、否応なく入っていかなければならない。

ここから映画の質感も変わっていく。

南米は、美しい観光地としてではなく、そこで誰かが働き、傷つき、追われ、それでも暮らしている土地として現れ始める。

バイクが壊れることは、

「世界を見る旅」から「世界の中に放り込まれる旅」への転換

だったのではないだろうか。

そして世界の中に入ってしまえば、風景だけを眺めていることはできない。

そこに生きている人間が見えてしまう。

「貧しい人」から、「なぜ貧しくなるのか」へ

旅の途中、エルネストたちはさまざまな人々と出会う。

土地を追われた人々。

過酷な環境へ向かう鉱山労働者。

差別される先住民。

病気によって社会から隔離された人々。

この映画が優れているのは、彼らを単なる「かわいそうな人」として並べないところだと思う。

旅を続けるうちに、エルネストの問いそのものが変わっていく。

最初は、

「なぜ、この人たちはこんなに苦しい暮らしをしているのだろう」

だったかもしれない。

しかし、それが少しずつ、

「なぜ、この社会では同じような立場に追いやられる人が、繰り返し生まれるのだろう」

という問いに変わっていく。

この違いは大きい。

貧困を一人の人生の不運として考えるなら、必要なのは慈善かもしれない。

しかし同じような貧困が、同じような人々の間で繰り返されるのなら、問題は個人ではなく社会の側にある。

土地を持つ者と、持たない者。

資本を持つ者と、自分の労働力を売るしかない者。

支配する者と、支配される者。

ここに、後のゲバラが社会主義やマルクス主義へ接近していくための視線の芽が見える。

マチュピチュで、旅は歴史へ変わる

映画の中で重要なのが、マチュピチュでの場面だ。

巨大な石造建築を前に、エルネストはかつて存在したインカ文明と、現在の先住民の暮らしとの落差を見る。

これほどの文明を築いた人々の子孫が、なぜいま社会の周縁へ追いやられているのか。

そこにあるのは、「昔は立派な文明がありました」という観光地の歴史ではない。

歴史には征服する側と、征服される側がいる。

しかも征服が終わったからといって、その力関係まで消えるわけではない。

土地所有。

民族差別。

植民地主義。

経済格差。

過去に起きたことが、現在を生きている人間の生活を決め続けている。

ここでエルネストの旅は、単なる地理的な旅から、歴史を遡る旅へ変わる。

南米大陸を進みながら、同時に彼は、

「なぜこの大陸は、いまこのような姿になっているのか」

を知っていくのである。

川の向こう側にいる人々

そして映画の中心にあるのが、ペルーのハンセン病療養所だ。

患者たちは川の向こう側に暮らしている。

健康な者と病める者。

医師と患者。

社会の中心にいる者と、そこから隔離された者。

その境界が、一本の川として目に見える形になっている。

エルネストは患者と接するとき、手袋をつけることを拒む。

ここで彼が最初に差し出すのは薬ではない。

素手である。

それは「かわいそうだから優しくしてあげる」という慈善とは少し違う。

むしろ、

「あなたと私は、本当にそれほど違う存在なのか」

という問いに見える。

社会的弱者を見るとき、私たちは無意識に「こちら側」と「あちら側」を作ってしまう。

健康な人と病気の人。

働ける人と働けない人。

支援する人と支援される人。

社会に適応できる人と、できない人。

もちろん、それぞれが置かれている状況は違う。

しかし、その違いを理由に人間そのものまで分けてしまったとき、そこに差別や排除が生まれる。

療養所でエルネストが拒んでいるのは、病気ではない。

病気を理由に、人間まで二つに分けようとする社会の視線なのだと思う。

喘息を抱えた身体で川を渡る

誕生日の夜、エルネストは川へ飛び込む。

しかも彼自身、喘息を抱えている。

ここが非常に重要だと思う。

彼は超人的な英雄として川を渡るのではない。

息が苦しい。

身体が思うように動かない。

最後まで泳ぎ切れるのかも分からない。

つまり彼自身も、「完全に健康な側」の人間ではない。

病を抱えた身体で、病によって隔離された人々の側へ泳いでいく。

だからこの場面は単純な英雄譚にならない。

患者たちをこちら側へ連れてくるのではない。

自分が向こう側へ行く。

彼が対岸へ渡ることで、川が象徴していた境界線は一瞬だけ無効になる。

私は、この瞬間に後のチェ・ゲバラにつながる最初の感情が生まれているように思う。

まだ革命ではない。

まだ社会主義ですらない。

ただ、

「なぜ自分はこちら側にいて、彼らは向こう側にいなければならないのか」

という違和感がある。

革命とは、もしかすると最初はその程度のものなのかもしれない。

社会が当然としている境界に、

「本当にこれは当然なのか」

と疑問を持つこと。

医者では治せない病気

しかし旅を続けるほど、エルネストは別の問題にも突き当たる。

彼は医学生である。

病人を治療できる。

薬を処方できる。

苦痛を和らげることもできる。

しかし、土地を失った人に薬を与えても土地は戻らない。

鉱山労働者の傷を治しても、翌日にはまた同じ危険な労働へ戻っていく。

病気になった人を診察しても、その人を社会から排除する差別まで治療することはできない。

ならば、治療すべきなのは人間だけではないのではないか。

社会そのものが病んでいるのではないか。

ここに、医学生エルネストと革命家チェを結ぶ重要な連続性があるように思う。

彼は医者を捨てて革命家になったというより、

治療する対象を、一人の身体から社会全体へ拡大してしまった。

社会に弱い立場へ追いやられる人間が繰り返し生まれるのなら、その原因を取り除かなければならない。

この感覚がマルクス主義と結びつけば、

貧困とは偶然ではない。

階級や土地所有、資本の構造によって生み出される。

ならば、その構造自体を変えなければならない。

という考えへ向かっていく。

グアテマラで「革命の論理」が生まれる

ただし、『モーターサイクル・ダイアリーズ』の旅だけで、ゲバラが革命家になったわけではない。

その後の彼を決定的に変えた出来事の一つが、1954年のグアテマラだった。

当時、民主的に選ばれたハコボ・アルベンス政権は農地改革を進めていた。

巨大な土地所有を見直し、土地を持たない農民にも再分配しようとする改革だった。

ところが、その政策は国内の既得権益やアメリカ企業の利益と衝突する。

そしてアルベンス政権は、CIAが関与した政変によって崩壊する。

ゲバラは、そのグアテマラにいた。

南米旅行で彼が知ったのは、

「この社会には格差がある」

という事実だった。

グアテマラで彼が突きつけられたのは、

「その格差を制度の中から変えようとしても、それによって利益を失う側が力によって改革を潰すことがある」

という現実だった。

ここで問いはさらに変わっていく。

「どうすれば弱い立場の人を助けられるのか」

から、

「現在の権力構造を残したまま、本当に弱者を救えるのか」

へ。

その後、ゲバラはメキシコでフィデル・カストロと出会い、キューバ革命へ参加していく。

南米の旅で、革命家の感情が生まれた。

グアテマラで、革命家の論理が生まれた。

そしてカストロとの出会いによって、その感情と論理に、銃という方法が与えられた。

川を越えた青年は、やがて別の線を引く

ただ、私はこの映画を「若き英雄チェ・ゲバラの誕生物語」として終わらせたくない。

映画のエルネストが魅力的なのは、まだ誰かを「敵」と呼んでいないからだ。

彼が越えようとしているのは、人と人の間に引かれた境界線である。

ところが革命は、別の境界線を生む。

革命と反革命。

味方と敵。

抑圧される者と、抑圧する者。

社会的弱者を救おうとする思想が、場合によっては新しい暴力を正当化する思想にもなる。

ここに、ゲバラという人物の魅力だけではなく、危うさもある。

ハンセン病療養所で川を渡った青年は、人間を分ける線を消そうとした。

けれど後の革命家チェ・ゲバラは、歴史の中で別の線を引く側にもなっていく。

だから、

「チェ・ゲバラはこの旅で革命家になった」

と簡単に言ってしまうことはできない。

この旅で彼が手に入れたのは、革命思想そのものではない。

それまで見えなかったものを、見てしまう目だった。

貧困を見た。

差別を見た。

病気によって人間が隔てられていく姿を見た。

現在の貧困の背後に、長い歴史があることを見た。

そして、そのさらに向こうに、それらを繰り返し生み出している社会の構造を見始めた。

一度それを見てしまえば、以前とまったく同じ人間には戻れない。

今、私たちの前にいるチェ・ゲバラは、赤と黒で印刷された一つの「記号」になっている。

Tシャツの中にもいる。

ポスターの中にもいる。

そして、タバコのパッケージにまでなってしまった。

革命を志した男の顔が、資本主義社会の中で商品となり、消費されている。

そこには、どこか笑えない皮肉がある。

しかし『モーターサイクル・ダイアリーズ』が見せてくれるのは、その記号になる前の男だ。

まだベレー帽もない。

赤い星もない。

銃もない。

ただ目の前にいる人間を見て、

「どうして、この人たちはここに追いやられているのだろう」

と考え始めた青年がいる。

そう考えると、『モーターサイクル・ダイアリーズ』が描いているのは、革命そのものではない。

革命が、まだ思想ですらなかった時間。

銃声よりもずっと前。

後に世界でもっとも有名な革命家の一人となり、ついにはその顔さえ商品になっていく男の胸の中に、

「この世界は何かがおかしい」

という小さな違和感が生まれた、その瞬間なのである。

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