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自伝的音楽エッセイ アメリカン・ロックな日々 イーグルス

 気が付いてみるとこのエッセイで取り上げるのはイギリスのアーチストが多くなっていた。日本人の僕は、知らず知らず、深くぐさっとくるブリティッシュの音楽に惹かれるのかなと思ったりする。でも振り返ってみると僕の洋楽人生の三分の一位はあまり重たくないアメリカンロックやポップスで満たされていた。そこで、深刻な内容でも重くなく軽快で明るいアメリカのロックと自分の関わりについて書いてみたい。そして僕の中でアメリカっぽい音楽の代表の一つはイーグルスだ。
 イーグルスが日本でラジオから流れ始めたのは1970年代の初め頃、僕が高校一年生の時であったと思う。彼らの最初のアルバムから「テイク・イット・イージー(Take it easy)」がリリースされた時で、本国アメリカとほぼ同時であった。それは軽快なリズムに明るいメロディを載せた分かりやすいロック調の曲であった。特徴的なのはコーラスが絶妙なのと少し長いエンディングにバンジョーのカラカラいう演奏が入っていたことで、僕は彼らもその頃アメリカではやっていたカントリーロックの一種かなと思った。僕はその頃マンドリンやバンジョー、スティールギターの音が響くカントリーロックが好きになり、質流れ品のバンジョーをディスカウントストアーで見つけ小遣いをはたいて買ったほどであった。
 イーグルスはアコースティックギターを多用したやわらかい演奏とメンバー四人がボーカルを執り、人生を歌う。まごうことなきカントリーロックバンドであった。僕は好きにならずにはいられないなと思った。
 彼らはその後「魔女のささやき(Witchy Woman)」「ピースフル・イージー・フィーリング(Peaceful Easy Feeling)」と同じアルバムからヒット・チャートに入る曲をリリースしてアメリカではまずますの人気バンドになって行った。Peaceful Easy Feelingには「愛のやすらぎ」という邦題が付いていたようであったが、僕はいつも原題で呼んでいた。多分そのころはAMラジォのFEN(在日米軍向けに放送されていた極東放送網で今はAFNとなっている)でイーグルスが掛からないかとチェックしていたからだと思う。FENのDJの英語がよく聴きとれた訳ではないがPeaceful Easy Feelingという言葉はシンプルな響きで聴き取り易かった。
 僕は大学を卒業するまで東京郊外の実家に住んでいた。当時あたりは宅地化が進んでいたけど、周辺にはまだ畑や原っぱが多く残っていて、僕はよく自転車でそのような場所を走っていた。晴れた暖かい日に自転車に乗りながら「ピースフル・イージー・フィーリング」を口ずさんでいた。まだ携帯の音楽プレーヤーなどなく、外で音楽に親しむのには自分で歌うしかないのであった。イーグルスのカントリー音楽は田園的な風景にいやにあっていた。

 その後二年の間、彼らは「ならず者( Desperado)」「オン・ザ・ボーダ(On The Border」の二枚のアルバムを出したが、日本ではそれほど評判にならなかったと記憶する。彼らの人気も洋楽好き以外にはさほどではなかった。それは多分、彼らのもつカントリーミュージックの色合いのせいだと思う。日本ではアメリカの歌謡曲、演歌的な要素をもつカントリーミュージックはある種くせがあり好きな人ははまるけれど、一般にはそれほど聴かれてはいなかった。
 「ならず者」のアルバムに入っていた「テキーラ・サンライズ(Tequila Sunrise)」はFENでは頻繁に流れていた。そしてこのアルバムには後年、シングル版としてはリリースされなかったにも拘わらず不朽の名作と言われるバラード「ならず者( Desperado)」が収録されていた。たまにラジオから流れるこの曲を聴くと聞くと、ああこれはアメリカだ、でも内容はずいぶん情緒的だなと思ったりした。

 ところで彼らの楽曲の中に一風変わった「魔女のささやき(Witchy Woman)」という黒魔術を感じさせるような曲があった。あくまでもエンタメ的ではあるが怖い感じを醸し出していた。それは彼等がその後カントリーミュージックから遠ざかるための一つの布石であったのかもしれない。よりロック的な方向性を感じさせるものがあった。当時まだ日本では一般的でなかったハロウィーンを思い起こさせる世界観をもつ曲であり、アメリカにはこんな文化もあるんだと感心した。 

 僕が大学受験に失敗して浪人生活をおくっていた頃、イーグルスは四枚目のアルバム「呪われた夜(One of these nights)を発表した。そのアルバムではカントリー色が薄まり高度な演奏技術やコーラスワーク、加えてセンスの良いアレンジを施した極めて上質なポップスの楽曲が聴かれた。歌詞もよりエンタメ的なものになって行った。
 「魔女のささやき」と似た様な雰囲気の「呪われた夜(One of these nights)」少しメロドラマのような世界「偽りの瞳(Lyin' Eyes)」、広大なアメリカを感じさせる「テイク・イット・トウ・ザ・リミット(Take it to the limit)」、スローでアコースティックギターの響きとコーラスで優しいメロディをもつ「我が至上の愛(The Best Of My Love)」などの曲が米国でも大きなヒットになった。
 この辺りの曲は日本でもラジオ番組でしばしば聴かれるようになったが、浪人生活をおくっていた僕はこれらをレコードで聴くことはなく、大学生になって買った「グレイテスト・ヒッツ1971-1975(Their Greatest Hits 1971-1975)」でこれらの楽曲と出会った。そしてその質の高さに驚いて何度も繰り返し聴いたのである。
 ちなみにこのアルバムは全米だけでも3,800万枚以上を売り上げ、アメリカで最も売れたアルバムとなりイーグルスは超大物バンドの地位を確固のものとした。
 イーグルスが76年に「ホテル・カリフォルニア」をリリースした頃、僕は大学二年生になり、大学の軽音楽クラブに入っていた。イーグルスの曲は特に大学生に好まれていた。僕は軽音楽部の友人たちと学祭で何かイーグルスの曲ができないかと相談した。その頃「ホテル・カリフォルニア」は一般にも知られて評価が高かったので何とか演奏できないものかと相談したが、演奏が緻密すぎてコピーは不可能ということになった。結局、比較的演奏の簡単な「ピースフル・イージー・フィーリング」と「テキーラ・サンライズ」をやることにした。
 その仲間たちと集まった後に、そのうちの一人が知り合いの女の子がバイトをしているカントリーミュージックのレコードを掛ける音楽喫茶に行こうと言い出した。そこで皆で新宿の小さなその店に出かけた。そこのマスターがバイトの子の知り合いで音楽をやってる大学生が来たということで喜び、「これはアメリカ南部で普段は農業をやり、農閑期だけ演奏する連中なんだ」と言って誰も知らないディープなカントリーバンドのレコードを掛けた。そのレコードから2、3曲かけたところでそのバイトの子が僕たちに気を使って、マスターに断って「ホテルカリフォルニア」のアルバムに変えてくれた。僕たちはちょっとほっとしてわいわいと学祭の話を始めた。するとそこにプロのミュージシャンぽい雰囲気の人たちが入って来てイーグルスを聴くとあからさまにつまらなそうな顔をした。僕たちはいたたまれなくなってすぐにその店を出た。
 後年、あのマスターが掛けてくれた農閑期のバンドとは何だったのかひどく気になったが調べようがなかった。学園祭では「ピースフル・イージー・フィーリング」と「テキーラ・サンライズ」は全く受けなかった。シンプルだけども良い感じに演奏するのはすごく難しい曲でもあった。

 イーグルスは「ホテル・カリフォルニア」の後は大人向けのポップスバンドという感じになり、しだいに大きなヒット曲は出なくなっていった。僕が社会人になるころには忘れ始められていた。やがてイーグルスのメンバーはそれぞれソロになって活動し始めた。
 再び彼らの演奏を聴いたのは94年のライブアルバム「ヘル・フリーゼズ・オーヴァー( Hell Freezes Over)」でである。このアルバムには新曲も入っていたがライブ音源では往年の彼らの名曲を熟練した感じで演奏していた。当時同名のミュージックビデオも出ていたので、僕はそのレンタルビデオも観た。すこし年輪を重ねたメンバーの顔を見て、この人たちも苦労してきたんだなと社会人になって15年ほど経った自分に重ねしみじみとそのビデオを観た。
 その後1970年代前半の頃にイーグルスがイギリスのBBCの番組に出演した際のビデオをNHKの洋楽ライブ番組で観た。それは彼等の初期のカントリーテイストで溢れる演奏であった。会社の後輩がその番組を録画したものをくれたので、僕は春先になるとそれを引っ張り出し今でもよく聴く。自転車で走りまわった半世紀前の春の田舎道を懐かしく思い出しながら。


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