空白の住人 前日譚
第2章 在宅のまま
――現代の、少し前
相生町の件は、三日後に報告が上がってきた。
見守りの担当が訪ねると、老人は奥の部屋で寝込んでいたという。風邪をこじらせて、何日か起き上がれずにいたらしい。台所まで行く力もなく、ただ布団のなかで天井を見ていた。命に関わるほどではなかった。担当が気づいて、近くの医院へつないで、それで済んだ。
済んだ、と報告書には書いてあった。私はその一行を、何度か読み返した。
老人が寝込んでいたあいだも、ポールの緑は灯りつづけていた。在宅。記録は、ずっとそう言っていた。異常なし。家のなかで人がひとり、起き上がれずに横たわっていても、灯は変わらず緑だった。あの動きの少ない記録を、私が見過ごしていたら。担当をまわさなければ。あの人は布団のなかで、もう少し長く、天井を見ていたのかもしれない。
緑は、嘘をついていたわけではなかった。老人はたしかに家にいた。在宅だった。ただ灯は、その人が起き上がれずにいることまでは、教えてくれなかった。
記録は、その人がそこにいることは教えてくれる。けれど、その人がどんなふうにそこにいるのかは、教えてくれない。
そんなことは、とうにわかっていたはずだった。
私には、それを身をもって知っている記憶がある。
血のつながった親の顔を、私は知らない。私を引き取って、女手ひとつで育ててくれた人がいた。その人のことを、私は名前で呼んだ覚えがあまりない。いつも、ただそばにいた。それで足りていた。
その人は、私をハルちゃん、と呼んだ。
雨の日には、私の濡れた髪を、乾いた手ぬぐいでていねいに拭いてくれた。風邪をひくと、おかゆの匂いで目が覚めた。本当の娘でもないのに、その人は私を娘のように育てた。心配性で、私が少し帰りが遅くなるだけで、玄関の灯をつけて待っていた。あなたがどこにいるか、ちゃんとわかっていたいの。その人はよくそう言った。あなたを見失いたくないから。

大人になって、私は街を出た。仕事を覚えて、暮らしに追われて、訪ねる回数が、少しずつ減っていった。たいした理由はなかった。今度の連休に、今度の誕生日に。そうやって先延ばしにするうちに、季節がいくつも過ぎた。
連絡をとらない日が続いても、私は心配しなかった。だって、灯は緑だったから。
その頃にはもう、街にマモリが入っていた。私は端末で、ときどきその人の家の灯を確かめた。緑。在宅。その人は家にいる。生きている。記録がそう言っていた。だから私は、安心して、また先延ばしにした。会いにいかなくても、灯を見れば、そこにいるとわかる。生きているとわかる。私はそう思っていた。
その人の灯が、いつから本当の意味で「在宅のまま」になっていたのか、私は知らない。
気づいたときには、もう遅かった。
灯は、最後まで緑だった。その人が家のなかで動かなくなってからも、ずっと。記録は、異常なし、と言いつづけていた。誰も訪ねなかった。私も、訪ねなかった。緑を信じて、訪ねなかった。
あのとき私が見ていたのは、その人ではなかった。その人がそこにいるという、たった一色の灯だった。
それからだ。私が記録の隙間を怖がるようになったのは。
緑の灯の下の、見えない空白が怖い。誰かがそこにいて、けれど誰にも気づかれないまま、灯だけが緑に点りつづけている。そのことが、たまらなく怖い。だから私は、動きの止まった記録を見過ごせない。黒木さんに、やりすぎだと思われても。
昼休み、給湯室で湯を沸かしていると、黒木さんが入ってきた。相生町の件、よかったな、とだけ言った。間に合ったんだから、それでいい。私は、はい、と答えた。
「ただな」
黒木さんはカップに湯を注ぎながら、こちらを見ずに続けた。
「ぜんぶは拾えないぞ。マモリは、そういうふうにはできていない。灯が緑なら、いる。それ以上は、こっちには見えない。見えないものを、無理に見ようとするな。きりがなくなる」
見えないものを、見ようとするな。
その言葉は、たぶん正しかった。マモリは、人手をかけずに誰も見落とさないための仕組みだ。一軒ずつ訪ねて回るには、この街は広すぎる。だから灯を信じる。緑を信じる。それが、誰も孤立させないための決めごとだった。
でも、と私は思う。私が信じていた緑は、あの人を見落とした。
給湯室の窓から、午後の街が見えた。昼の光のなかでは、ポールの緑は、ほとんどわからない。けれど、たしかにそこに点っている。何千、何万という緑が、この街のあちこちで、今も誰かの在宅を告げている。在宅。在宅。在宅。
そのうちのいくつが、本当に「在宅のまま」なのか、私には数えようがなかった。
相生町の老人は、間に合った。よかった、と私は思う。心から思う。
それでも、その晩も、私はうまく眠れなかった。緑の灯は、その人がそこにいることしか、教えてくれない。街のどこかで今も点っている緑の下に、私の知らない空白が、いくつ眠っているのだろう。
その問いに、マモリは答えてくれない。
