「あなたの入力ミスです」その一言が、すべての財産を奪い去る――。64歳・剣崎宗一郎の知性が最新詐欺を完全論破する小説『パンドラ・ファイル』その15『捏造(ねつぞう)の過失(スコア・ループ)』(全7章)第1章:小さな幸運のメール
在宅で働く駆け出しフリーランス・立花結衣。
好条件のPR案件を受託した彼女を待っていたのは、登録サイトに表示された『口座情報不一致:資金凍結』という真っ赤な警告だった。
「あなたの誤入力のせいで、システムがロックされた。解除するには同額の保証金を支払え」
責任感と焦りから、なけなしの貯金を振り込んでしまう結衣。しかし、それは彼女の「誠実さ」を人質にするために、最初から仕組まれた「捏造された過失」だった……。
心の弱みではなく「良心」をハッキングする卑劣な罠に対し、剣崎宗一郎率いる影のデバッグチーム「パンドラ」が、心理とデジタルのロジックを武器に反撃を開始する!
現代の副業・在宅ワークブームに潜む、最も悪質な「ミス捏造型詐欺」のからくりを暴く知的サスペンス。
「知性とは、自分を守り、他者を救うためにある」 by 剣崎宗一郎
薄暗い六畳間のアパート。唯一の光源であるノートパソコンの画面が、立花結衣の真剣な横顔を白く照らし出していた。
カタカタ、と深夜の部屋にキーストロークの音だけが等間隔で響く。
結衣は、大学を卒業した後に一般企業への就職を辞退し、在宅で活動するフリーランスのWebライター兼翻訳者として独立して一年が経っていた。
自分の力で稼ぎ、誰にも縛られずに生きていく――。そんな夢を抱いて踏み出した道だったが、現実は甘くなかった。
クラウドソーシングサイトに登録したものの、受注できるのは一文字あたり一円にも満たないような低単価のライティング案件や、数行の短い外国語メールの和訳といった雑務ばかり。
どれだけ一日中パソコンの前に張り付いてキーボードを叩いても、手元に残る月々の収入は、家賃と食費、そして独立する際に購入したハイスペックパソコンの分割ローンを支払うと、綺麗に消えてしまう程度だった。
「今月も、やっぱりギリギリ……」
結衣は温かくなったお茶を口に含み、凝り固まった肩を回した。
最近は、愛用しているパソコンのファンの音が異様に大きくなり、時折処理が重くなる。
万が一これが故障して買い替えとなれば、現在の彼女の経済状況では完全に立ち行かなくなることは目に見えていた。
(もっと、まとまった金額がもらえる継続案件があればいいのに……)
溜め息をつきながら、案件受付用に公開している自身のビジネス用メールアドレスの受信トレイを更新した。
その時、受信トレイの一番上に、見慣れない海外の送信ドメインから一通の新規メールが届いた。タイトルは、
【案件ご相談】新規日本向けアパレルブランドの紹介・翻訳パートナー募集について
メールを開いた結衣は、その極めて丁寧で流暢な日本語の文面に目を奪われた。

メールの内容は、新しく日本市場へと展開する欧州のアパレルECブランド「エステル(仮名)」の日本公式プロモーションに伴う、製品紹介の記事作成およびプレスリリースの翻訳ライティングの依頼だった。
提示された条件は、週に二本の記事作成と翻訳。期間は三ヶ月。
そして何より結衣の目を釘付けにしたのは、そこに書かれていた報酬額だった。
本案件の基本報酬として、月額【十万円(税別)】を想定しております。
なお、初期の制作意欲と進行の迅速化を図るため、当月分の報酬はすべて【前払い】にてお支払いさせていただく形式をとっております。
(十万円……しかも、前払い?)
これまでのチマチマとした低単価案件に比べると、あまりにも破格の条件だった。
何より「前払い」という言葉が、来月のローン支払いに頭を悩ませていた結衣にとって、救いの蜘蛛の糸のように見えた。
「怪しい……かな? でも、文章はすごくしっかりしているし、ブランドの公式サイトのリンクも本物っぽい」
彼女は記載されていたリンクをクリックし、実際に「エステル」というブランドが実在し、洗練された海外のアパレルショップであることを確認した。
(少し珍しい支払い方法だけど、海外の企業ならそういうこともあるのかもしれない)
結衣は高鳴る鼓動を抑えながら、すぐに「お引き受けいたします」という承諾の返信を送った。
すると、待っていたかのように数分で返信が届いた。
ご快諾いただき、誠にありがとうございます。
今後の詳細な業務連絡、および前払い金のお振込手続きにつきましては、弊社が指定する暗号化メッセージアプリ(または指定のチャットツール)で行わせていただきます。
以下のリンクより、チャットへのご参加をお願いいたします。
結衣は何も疑わずにリンクをクリックし、チャットに登録した。
画面の向こうに現れた「担当者・木村」と名乗る人物は、プロフェッショナルかつ丁寧な態度で彼女を歓迎し、一つのファイルを送ってきた。
ありがとうございます、立花様。
では、前払い金十万円の安全なお振り込み、および今後の契約管理を行うため、弊社が提携しております上場企業系列のビジネス・マッチングプラットフォーム『Biz-Nexus(ビズ・ネクサス)』への登録をお願いいたします。
こちらのシステムを経由して、安全にお金が送金される仕組みとなっております。
提示された『Biz-Nexus』のURLをクリックすると、画面には洗練されたスタイリッシュなデザインのサイトが広がっていた。

『Biz-Nexus』の画面をスクロールした結衣は、完全に安心しきっていた。
サイトの端には、誰もがテレビCMで目にするような一流のスイーツ企業や大手衣料品ブランドのロゴが「提携実績」として綺麗に並んでいる。
「これだけ大きなプラットフォームを使っているなら、絶対に大丈夫」
彼女は、新規アカウントを作成すると、前払いの報酬十万円を受け取るためのメインの銀行口座情報を入力した。銀行名、支店名、口座種別と番号、そして自分の名前をカタカナで。何度も確認して、登録ボタンを押す。
口座情報の登録が完了しました。
担当者による振込手続きをお待ちください。
すぐにチャットツールの方に、担当者の木村から連絡が入った。
立花様、登録ありがとうございます。
ただいま、弊社財務部より、前払い報酬十万円の送金手続きを実行いたしました。
数分後に『Biz-Nexus』のマイページより、入金のご確認をお願いいたします。
「本当にもらえるんだ……」
結衣は、まるで長いトンネルの出口が見えたような安堵感を覚え、サイトをリロードした。
しかし、画面が切り替わった瞬間、結衣の目の前に現れたのは、入金を知らせる緑色のメッセージではなかった。
画面中央に表示されたのは、心臓が凍りつくような、不気味な赤い警告バナーだった。

警告:口座情報の入力不一致を検出しました。
セキュリティ保護のため、送金手続き中の資金十万円はシステム内に「凍結」されました。
直ちに管理担当へ連絡してください。
「え……? 不一致?」
頭が真っ白になった。
入力した口座番号が、一箇所だけ間違っていたというのだ。自分では何度も確認したつもりだったのに、なぜ。
パニックになる結衣に、チャットツールを通じて、今度は「Biz-Nexusシステム管理担当」と名乗る別のアカウントから連絡が届いた。
立花様。大変な事態が発生しております。
あなた様がご登録された口座番号に「一桁の誤入力(不一致)」があったため、システムが自動的に資金の不正引き出しと判定し、前払い金十万円がロックされてしまいました。
このままだと、システムエラーによりあなた様のアカウントは永久に停止処分となり、弊社の提携企業(エステル社)への送金エラーペナルティも発生してしまいます。
「永久停止」「ペナルティ」という強い言葉に、結衣の心は完全にすくみ上がった。
すべては、自分が口座入力を間違えたせいだ。相手の好意的な前払いを、自分の初歩的な不注意で台無しにしてしまった。申し訳ない、どうにかして自分の非を正さなければ――。
ですが、解決する方法はございます。
管理担当からのメッセージが続く。
このシステムエラーを解除し、アカウントの健全性を証明するため、凍結された十万円と同額の「保証金(デポジット)十万円」を、一度弊社のシステム安全口座へお振り込みください。
口座情報の不一致が「悪意あるハッキングではなく、純粋な入力ミス」であることが証明されれば、システムロックは自動的に解除されます。
解除後、前払い金の十万円と、あなた様が振り込んだ十万円、合計二十万円が、正しい口座情報に基づいて即座に全額返金されます。本日中に手続きをお願いいたします。
(どうせ、あとで全額返ってくる……)
結衣の脳裏に、その甘い言葉が響いた。
パソコンの買い替えローンのために残しておいた、彼女の全財産に近い十万円。
怪しい、と思う心の片隅の声は、「自分がミスを犯した」という圧倒的な罪悪感と、早く状況を解決しなければならないという激しい焦りにかき消されていった。
「私が間違えたんだから、自分で解決しなきゃ……」
結衣はスマートフォンのバンキングアプリを開いた。
震える指先で、指定された個人名義の「安全口座」宛てに、十万円の振込金額を入力していく。
送信ボタンの上に、指が置かれた。
それが、詐欺師たちが手ぐすねを引いて待つ、底なしの底引き網の一歩であるとも知らずに。

(第2章へ続く)
