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【硝子の薔薇】 第四章:境界線の消失

視界が、白濁していく。
 大聖堂を後にした僕たちの足取りは、もはや生者のそれではなくなっていた。
 僕の指先はいつの間にか硬質化し、ペンを握る感覚さえも失われていた。爪は剥がれ、その下から覗くのは赤い肉ではなく、鈍く光る硝子の組織だった。

「……先生、あなたの声が、遠くなっていくわ」

 お前が歩くたび、足元ではバリン、と乾いた音が鳴る。
 お前の足首から先は、すでに砕け散った硝子の破片と化していた。それでもお前は、痛みを愛でるように、残された骨を軋ませて進み続ける。

 僕は、お前の名を呼ぼうとした。
 だが、唇を動かすたびに喉の奥で硝子の破片がせめぎ合い、言葉は鮮血とともに吐き出された。
 一つ名を呼ぶたびに、僕の中の「人間」が剥がれ落ちていく。
 思い出、温もり、倫理……。それら全てが、錆びた月の光に焼かれて灰になり、空っぽになった器の中に、お前と同じ冷たい毒が満たされていく。

「夢か現か……もう、どうでもいいことだ」

 僕たちは、街の最も高い場所——かつて時計塔と呼ばれた瓦礫の頂にいた。
 眼下に広がるルナ・ルストは、もはや街の形をなしていない。
 建物も、道も、行き交う人々さえも、すべてが錆びた色の粘土のように溶け合い、巨大な一つの「死」となって蠢いている。

 僕の胸の奥で、カチリ、と音がした。
 心臓が、最後の鼓動を止めたのだ。
 代わりに始まったのは、冷徹な結晶の増殖。
 お前の瞳の底に映る僕は、もはや僕ではなかった。
 そこには、お前を傷つけるために、そしてお前に傷つけられるために誂えられた、一体の精巧な硝子細工が立っていた。

「永遠なんて、嘘だと思っていたけれど……」

 お前が僕の胸に手を当てる。硝子と硝子が触れ合い、不快で、けれどこの世の何よりも清廉な高音が響き渡る。
 僕たちは、自分たちがもはや「命」ではないことを悟った。
 僕たちは、愛の残骸の中に咲いた、ただの徒花だ。

「ああ。永遠はない。あるのは、この闇の底で堕ち続ける、終わりのない一瞬だけだ」

 境界線はとうに消えた。
 僕がお前であり、お前が僕であるような、おぞましくも甘美な混濁。
 錆びた月が、最後の一滴を絞り出すように僕たちを照らし出した。

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