セカ雑◆世界は今日も、少しだけ傾く
旅人は、
毎朝ちがう村で目を覚ます。
昨日まで石を積んでいたはずなのに、
今日は畑を耕せと言われる。
明日は舟を漕げと言われる。
「猫の手も借りたい」と呼ばれ、
夕暮れには「やっぱりいらない」と告げられる。
旅人は荷をまとめるのが早くなった。
長く留まらないことに、慣れてしまったからだ。
ある朝、目覚めると頭が重かった。
こめかみに鈍い痛みがある。
立ち上がると、床がわずかに揺れる。
壁に手をつき、十数歩、ゆっくり歩く。
やがて昼になると、痛みは薄れる。
だから誰にも言わない。言えば、
「気のせいだ」と言われるのが分かっている。
夜のあいだに何かが積み重なり、
朝になると、見えない輪が頭を締める。
そんな感覚だけが残る。
旅人は一度、治療師の街を訪れた。
白い衣の治療師は、話を最後まで聞かない。
代わりに、薬の袋をいくつも渡す。
袋は軽いが、数が多い。
机に並べると、妙に整然として見えた。
旅人は思う。
この街は病を治しているのではない。
ただ、処理しているのだ。
ある日、広場で丸めた紙を箱に投げた。
入らなかった。
もう一度投げた。
縁に当たり、跳ね返る。
三度目も、入らない。
旅人はしばらく箱を見つめる。
角度か。
風か。
腕の癖か。
それとも、この世界はほんの少しだけ傾いているのか。
影がささやく。
「お前が下手なだけだ」
旅人は黙る。
小さなことだ。
ただの紙切れだ。
けれど、なぜか胸の奥がざわつく。
村は毎日変わる。
治療師は流れ作業。
風は理由なく吹く。
世界は、誰かを狙ってはいない。
ただ、雑なのだ。
その雑さが、誠実な者の上に、
まっすぐ落ちるだけなのだ。
その日から旅人は、記録をつけ始めた。
村の名前。朝の痛みの強さ。
治療師の言葉。入らなかった紙片のこと。
影の声さえも。
書いているうちに、旅人は気づく。
自分は運ばれるだけの者ではない。
この世界の傾きを、
測ろうとしている者なのだと。
朝に締まる輪は、
呪いではなく、印だったのかもしれない。
世界がどこで歪むのかを、
教えてくれる印だったのかもしれない。
~~~~~
「これでよい」
丁寧な筆致で書き終えると、
修道士は満足げにうなずいた。
中世のある町。
修道院の書記室で、
一人の修道士が羊皮紙に物語を書いた。
題は――
『朝に締まる輪』。
風の神。雑な世界。
朝に締まる見えない輪。
~~~~~
数日後。
町の粉屋の男が、その写本を手に入れた。
粉屋は文字が読めることを少し自慢にしている。
炉のそばで読み始める。
三段落目で眉をしかめる。
「毎朝ちがう村に目覚める?」
次の頁。
「世界は雑なのだ」
粉屋は鼻を鳴らす。
「いやいやいや」
翌日。
粉屋は修道院にやって来る。
写本を持って。
「修道士殿」
「なんでしょう」
「この“雑な世界”とは何ですか」
修道士は穏やかに答える。
「世界は不完全である、という寓意です」
粉屋は腕を組む。
「それは分かる」
「だがなぜ、いちいち風の神を出すのです」
「風は象徴です」
「象徴にしては仕事をしすぎです」
修道士は少し困った顔をする。
粉屋は続ける。
「それと、この“朝に締まる輪”。
わしも朝は少し腰が痛い。
だがそれを呪いと呼ぶのは大げさではないか」
修道士は静かに言う。
「それは呪いではなく、気づきの印です」
粉屋は首をかしげる。
「ではなぜ昼には治るのです」
「昼は忙しいからです」
粉屋は思わず笑う。
「それはただの生活では?」
しばし沈黙。
修道士が問い返す。
「では粉屋殿。
昨日、粉袋を運ぶとき、
少しふらつきませんでしたか」
粉屋は固まる。
「……した」
「そしてそのとき、
“年のせいだ”と呟きませんでしたか」
粉屋は目を細める。
「……した」
「その声こそ、影です」
粉屋はむっとする。
「わしを寓話の中に入れるな」
そのとき、窓から風が吹き込み、
机の端の紙片が床に落ちる。
粉屋は拾い、丸め、
部屋の隅の籠に投げる。
外れる。
もう一度。
外れる。
三度目。
やはり外れる。
修道士は黙って見ている。
粉屋は振り返る。
「これは偶然だ」
「もちろん」
「世界が傾いているわけではない」
「もちろん」
粉屋は四度目に投げる。
入る。
粉屋は咳払いをする。
「ほらな」
修道士はうなずく。
「世界は今日も雑ですが、許容範囲ですな」
粉屋は目を細める。
「……それ、わしの台詞では?」
帰り道。
粉屋はぶつぶつ言う。
「象徴だの構造だの、面倒なことを」
だが、家に着いても、
ほんの少しだけ考えてしまう。
もし、
雑さが悪意ではないとしたら。
もし、
わしの朝の腰の痛みが、
ただの年齢ではないとしたら。
粉屋は首を振る。
「やめろやめろ。
粉を挽け、粉を。」
だが翌朝、
籠に紙片を投げるとき、
ほんの少しだけ角度を意識した。
そして小さく呟く。
「……構造、か」
~~~~~
粉屋は帰宅した。
炉の前に座り、
しばらく黙っていた。
「構造、か」
口に出してみる。
なんだその言葉は。
粉の粒子みたいで、落ち着かない。
粉屋は机に向かう。
空いた羊皮紙を引き寄せる。
羽根ペンを握る。
「……続きを書いてやる」
粉屋の書いた物語は、こう始まった。
ある日、旅人は粉屋に出会った。
粉屋は言った。
「世界は雑ではない。
ただ、お前の腕が未熟なだけだ」
粉屋は満足げにうなずく。
「よし。現実的だ」
書き進める。
旅人は紙を投げた。
粉屋は正しい角度を教えた。
紙は一度で入った。
世界は正常である。
粉屋は深くうなずく。
「これだ。教育の力だ。」
翌朝。
粉屋は粉袋を担ぐ。
少し重い。
「構造ではない。筋力だ。」
自分に言い聞かせる。
市場へ向かう途中、
石畳に足を取られる。
よろける。
粉袋が少し破れ、
粉が地面に白く広がる。
粉屋は立ち尽くす。
「……石の配置が悪い」
すぐに首を振る。
「違う。わしの足が悪い。」
その日の昼。
小さな紙片を丸める。
籠へ投げる。
外れる。
粉屋は眉をひそめる。
「角度が足りぬ」
二度目。
外れる。
「風だ」
三度目。
外れる。
粉屋は静かに籠を見つめる。
しばらく沈黙。
ぽつりと呟く。
「……もしや」
すぐに首を振る。
「いや違う。
これは教育不足だ。」
四度目。
入る。
粉屋は大きくうなずく。
「見よ、努力は報われる。」
だがその夜、
机の上の羊皮紙を見つめながら、
手が止まる。
世界は正常である。
その一文が、妙に薄く見える。
粉屋は羽根ペンを持ち上げる。
ためらう。
そして小さく書き足す。
……ただし、ときどき少しだけ傾く。
粉屋は固まる。
「なんだこれは」
慌てて消そうとする。
だがインクはにじんで消えない。
翌日、粉屋は再び修道院へ向かう。
写本を握りしめて。
「修道士殿」
「おや、またお越しで」
粉屋は羊皮紙を差し出す。
「続きを書いた」
修道士は目を細める。
静かに読み進める。
やがて微笑む。
「ほう」
「笑うな」
「笑っておりません」
「わしは世界は正常だと証明した」
「ええ」
「だが……最後の一文は余計だった」
修道士は首をかしげる。
「余計でしょうか」
粉屋は目をそらす。
「……少しだけ、傾くこともあるかもしれん」
修道士はうなずく。
「それで十分です」
粉屋は腕を組む。
「何がだ」
「構造を読む第一歩は、
“完全否定しないこと”です」
粉屋はしばらく黙る。
やがてぶつぶつ言う。
「わしはまだ旅人ではない」
「ええ」
「ただの粉屋だ」
「ええ」
粉屋は帰り際、小さく呟く。
「だが、粉の流れくらいは読める」
修道士は微笑む。
「それが構造です」
その日から粉屋は、
粉の落ち方を少しだけ観察するようになった。
籠に投げる紙の角度も、
ほんの少しだけ。
ぶつぶつ言いながら。
