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親になったら、絵の見え方が変わった│髙島野十郎展@松濤美術館

仕事の休みを取って、一人で渋谷の松濤美術館の「没後50周年 髙島野十郎展」に行ってきた。

髙島野十郎の絵は、社会人になりたての頃に観たことがあった。
代表作の月や蝋燭、絶筆の睡蓮の、静かながら凄みのある存在感に心惹かれて、また東京に来るならば必ず観に行くと決めていたのだった。

子供が生まれてから観る野十郎作品は、味わいがまた全然違った。

画面の端に描き込まれた小さな野花が、10年前の私にどこまで見えていただろうか。
菜の花が地面にしっかり根を張って、もりもりと伸びているさまを、木立のすき間から差し込む陽の光の温かさを、月明かりの静かな夜に、木の葉が風に揺れるさやさやした音を、あのときの私はどこまで感じられていたのだろうか。

子供と歩く道草だらけの散歩は、知らぬ間に、私の世界を広げてくれていたのだった。
黄色い花が咲いてるね、大きな石だね、お月さまが出たね。
風が涼しいね、おひさままぶしいね、落ち葉がかさかさいってるね。
一人で歩くと何となく通り過ぎてしまいそうなことを、寄り道しながらひとつずつ拾い集めていた。
対象物を、どこまでも切り捨てずに描く野十郎の絵は、そんな子供と歩く道に似ていたのだ。

息子に手を引かれて、通るつもりのない道に入ったときに、きれいな紫色の花が咲いているのに出会ったことがあった。
この道にこんなにかわいい花が咲いていたなんて、今の家に住んでもう4年も経つのに初めて知った。

誰に見られるわけでもなく、花は咲いて、実はなって、季節は移る。
風景は、晴れていても、雨が降っても、ただ静かにそこに存在している。
そういう、ただそこに「在る」ことへの圧倒的な肯定を、今回の野十郎展ではひしひしと感じたのだった。
それは生への祝福とか、風景の美しさとかいう次元の話ではなく、ただ「在る」、世界はそういうものなんだ、という感覚だった。

今までもそこに「在った」のに、何となく見えていなかっただけなのだ。
それを、子供と過ごす日々が見えるようにしてくれた。
いや、多分まだ見えていないものも、山ほどあるのだろうけれど。

子供を産んだとき、人生の大先輩から「子育てしっかり味わってください」との言葉をいただいたのを思い出す。
子育てを味わうことは、絵や、音楽や、踊りや、あらゆることの味わいが増すことだったんだな、と思う。

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