🎥『国別映画史』14 フィリピン
【フィリピン-植民地から量産国家へ、そして壊滅(1897-1949)】
フィリピン映画は、
スペイン植民地の終焉とともに始まる。
国家は弱い。
だが映画は早い。
0|制作本数という前提
※本章の制作本数は概ね長編劇映画(約60分以上)を基準とした概算である。
制作規模(概算)
1900年代(1900–1909):制作ほぼゼロ
1910年代(1910–1919):10年間合計で10本前後
1920年代(1920–1929):年間5~10本前後
1930年代(1930–1939):年間15~30本規模
1942–45年:日本占領下で統制制作
1946–49年:再建期(年間20本前後)
1930年代に産業規模へ到達。
東南アジアでは最も早い。
1|最初の上映(1897)
1897年、マニラ。
スペイン人興行師による映画上映。
フィリピンは東南アジアで最も早い上映受容国の一つ。
だが直後に米西戦争(1898)。
アメリカ統治が始まる。
映画はここから
アメリカ文化圏の延長線上
で発展する。
2|最初の国産映画(1919)
1919年、『Dalagang Bukid(田舎娘)』。
監督:ホセ・ネポムセーノ。
フィリピン初の国産長編とされる。
舞台演劇を基盤にした物語。
ここでも伝統芸能から映画へ。
中国と似た構造だが、
決定的に違うのは、
アメリカ市場との接続。
3|アメリカ統治とハリウッド型産業
アメリカ統治下(1898–1946)。
英語教育、都市化、消費文化。
フィリピン映画は
スタジオ制
スター制度
ジャンル映画
をハリウッドから直接学ぶ。
1930年代には
メロドラマ
音楽映画
歴史劇
コメディ
が量産される。
制作本数も年間20本前後へ。
東南アジアで初めての“量産国家”。
4|1930年代:黄金期
1930年代後半、
映画会社が増加。
マニラが制作中心。
観客市場拡大。
フィリピン映画は国内市場を自給できる産業になる。
だが政治は不安定。
1935年、フィリピン自治政府発足。
独立準備期間。
映画は民族意識を反映し始める。
5|1942年:日本占領
1942年、日本軍がマニラ占領。
映画制作は統制下へ。
宣伝映画が制作される。
だが規模は縮小。
映画は再び
国家装置
になる。
6|戦争による壊滅
1945年、マニラ市街戦。
映画スタジオの多くが破壊。
アーカイブも失われる。
戦争は物理的に映画を消す。
ここがフィリピンの転換点。
7|1946年:独立と再建
1946年、フィリピン独立。
制作再開。
年間20本前後へ回復。
戦後フィリピンは
アジア最大級の映画生産国になる。
1950年代には
年間100本超へ。
だがそれは次章の話。
フィリピンの意味
フィリピンは
植民地から始まり
アメリカ型産業を導入し
1930年代に量産国家化し
戦争で壊滅し
独立国家として再建された
国である。
映画はここで
植民地文化
模倣産業
民族意識
戦時装置
すべてを経験する。
映画は光でできている。
フィリピンではその光は一度焼き払われ、そして再び灯された。
