🎥『国別映画史』15 エジプト
【エジプト-発掘される国から撮る国へ(1896-1949)】
エジプトは、最初は「撮られる国」だった。
やがて、「撮る国」になる。
本章はその転換を扱う。
0|制作本数という前提
※長編劇映画(約60分以上)基準の概算。
制作規模(概算)
1900年代:制作ほぼゼロ(外国撮影中心)
1910年代:断続的(年間数本未満)
1920年代:約20~30本(10年合計/年間2~3本)
1930年代:約450本前後(10年合計/年間45本前後)
1940–44年:約150本前後(5年合計/年間30本弱)
1945–49年:約200本前後(5年合計/年間40本前後)
▶ 産業化到達ライン:1930年代(年間40本超)
エジプトは明確に非西洋量産国家へ入る。
Ⅰ|撮られる国(1896–1920年代)
1896年、アレクサンドリアで映画が上映される。
だが制作主体は欧州。
エジプトは:
ナイル川
ピラミッド
砂漠
古代遺跡
として撮影される対象だった。
1922年|ツタンカーメン発掘
ハワード・カーター
カーナヴォン卿
発掘は世界的ニュースとなる。
だがここで重要なのは、
1922年が完全なサイレント時代であることだ。
映像は無声で世界を巡った。
Ⅱ|ニュース映画の国際流通網
発掘映像は複数のニュース映画会社を通じて流通した。
主な系統:
パテ(Pathé News)
ゴーモン(Gaumont British)
フォックス(Fox News)
ニュース映画は:
現地撮影
本国で編集
テロップ差し替え
各国配給
というモデルを持っていた。
同じ墓室映像が、
国ごとに別の物語へ変換された。
Ⅲ|各国の上映形式
イギリス
英語インタータイトル
劇場伴奏
帝国的語り
発掘は帝国の成果として提示される。
アメリカ
再編集テロップ
冒険・呪いの強調
娯楽化
ニュース映画は商品でもあった。
フランス
フランス語差し替え字幕
文化遺産としての語り
日本
1922年日本は弁士文化圏。
ニュース映画は主に:
原版輸入
簡易日本語テロップ
弁士による解説
で上映された。
輸入経路としては:
パテ系ニュースの日本代理配給
松竹・日活による外国短編の併映
常設ニュース映画館での組み込み上映
当時、日本には:
パテ系ニュースの配給網
外国短編専門の興行ルート
が存在していた。
ツタンカーメン発掘映像も、
そのネットワークに乗った可能性が高い。
上映形式は:
映像は外国、
物語は弁士。
同じ墓でも、
日本では文明史ロマンとして語られた可能性がある。
Ⅳ|ニュース映画=帝国情報装置
ここで理論化する。
ニュース映画は:
事実報告装置
娯楽商品
帝国的視線の拡張装置
を兼ねていた。
重要なのは「編集権」。
撮影者と編集者が物語を決める。
エジプトは:
古代の土地
神秘の遺跡
他者
として再構成された。
ニュース映画は、
他者を現在から切り離す装置
でもあった。
サイレント時代は音声が無い分、
テロップと語りが意味を支配する。
映像は同じでも、
意味は国ごとに変わる。
エジプトは素材であり、
意味は輸入国で生成された。
Ⅴ|転換点:スタジオ体制
1935年設立。
Studio Misr
Misr(مصر)” はアラビア語で「エジプト」。
発音は:英語読み:ミスル/ミサー
アラビア語発音:ミスル(語末は軽いr)
エジプト方言でも「ミスル」に近い。
銀行資本
音響設備
撮影ステージ
編集設備
ここで起きたのは量産化だけではない。
編集権の奪回である。
撮られる国が撮る国へ移行する。
Ⅵ|1930年代の量産国家
年間45本規模。
アフリカ最大
アラブ圏中核
非西洋量産国家モデル
音楽映画が市場を拡張する。
象徴例:
Wedad
歌唱スターを軸に広域市場を形成。
Ⅶ|戦争と持続
第二次世界大戦で減速。
しかし壊滅はしない。
戦後、再び40本規模へ回復。
基盤は自立していた。
Ⅷ|言語・字幕構造
エジプトはアラビア語国家。
エジプト方言は広域理解性を持ち、
域内流通は字幕不要。
域外輸出は字幕対応。
分類:
地域文化中心型言語統合国家
字幕輸出型国家
Ⅸ|国家モデル分類
エジプトは:
被写体国家 → 生産国家転換モデル
地域文化中心型映画国家
植民地影響下自立型産業
非西洋量産国家モデル
結論
1922年、墓は無声で世界を巡った。
だが物語は、各国の制度が付与した。
1930年代、エジプトは物語を自ら作り始める。
撮られる国から撮る国へ。
ここに転換がある。
