🎥『国別映画史』02 フランス
【フランス-映画が産業になる瞬間-(1895-1944)】
1895年12月28日、パリ。
グラン・カフェ地下のサロン・アンディアン。
ここで有料の公開上映が行なわれた。
これが「映画の誕生日」と呼ばれることが多い。
しかし、ここは少し慎重に考えたい。
① 確実なこと
まず、記録として確実な点を確認しておく。
1895年12月28日に有料上映が行われたこと
リュミエール兄弟のシネマトグラフが使用されたこと
約50秒前後の短編が複数本上映されたこと
ここまでは一次資料に基づき確認できる。
この日、映画が「発明」されたのではない。
映画が興行として成立した日である。
② 復元されたプログラム
当日の完全な上映リストは、完璧な一次資料としては残っていない。
現在流通している「初回10本プログラム」は、後年の資料や研究をもとに復元された“定番セット”である。
そこには次のような作品が含まれるとされる。
『工場の出口』
『赤ん坊の食事』
『散水夫(散水夫に水をかけられる)』
『鍛冶屋』
『写真学会の到着』
『金魚すくい』
ほか数本の短編
共通するのは、日常、労働、家庭、軽い喜劇。
壮大な物語はない。
だが、市場は見えた。
③ 神話化されたイメージ
よく語られる逸話がある。
「列車がスクリーンに向かって走ってきたとき、観客は驚いて逃げた」
このイメージは映画史の象徴となった。
だが、『列車の到着』は初回上映に含まれていなかった可能性が高い。
この作品は1896年に公開され、後に“映画の衝撃”を代表する映像として記憶された。
初回興行と象徴的イメージは一致しない。
映画史は、記録と記憶が重なって形成される。
なぜエポックなのか
12月28日が重要なのは、作品の内容ではない。
ここで初めて動画が、
料金を払い
暗い空間に集まり
集団で観る
という制度に組み込まれた。
動画は技術から市場へ移行した。
この瞬間、映画は国家単位で読める対象になる。
産業となったものは、国家の影響を受ける。
ここから映画は、フランスの国家構造の中で拡大していく。
なぜフランスだったのか
動画の原理は国境を越えて存在していた。
だが、映画が最初に産業化したのはフランスである。
理由は単純ではない。
19世紀末のフランスは、
都市化が進み
鉄道網が整備され
写真産業が成熟し
万博文化が定着し
娯楽市場が形成されていた
光学玩具は既に売られ、観客は「動く像」に慣れていた。
市場は準備されていた。
リュミエールとメリエス
リュミエールは記録を撮った。
『工場の出口』
『列車の到着』
日常の断片。
メリエスは幻想を作った。
舞台装置。トリック。物語。
この二つの流れは、映画の基本形を提示している。
記録と虚構。
ここで映画は、芸術と娯楽の両義性を持つ。
パテとゴーモン
重要なのは巨匠ではない。
企業である。
1896年以降、パテ社は量産体制を整え、制作・配給・上映を統合する。
ゴーモンも続く。
映画は個人発明から産業へ移行する。
ここで初めて、
「年間制作本数」という指標が意味を持つ。
植民地と映画網
フランスは植民地帝国だった。
映画は配給網とともに拡張する。
アルジェリア、インドシナ、アフリカ。
映画は文化であると同時に、帝国の視覚装置でもあった。
1910年代
アメリカが台頭する。
第一次世界大戦が始まる。
制作本数は減少し、輸出は縮小する。
国家と映画は、戦争の影響を受ける。
映画は中立ではない。
フランスの意味
フランスは「映画の発明国」ではない。
だが、
映画を産業化し、興行制度に組み込み、国家的輸出産業にした最初の国
である。
動画は社会構造の上に現れる。
そして国家構造の中で拡大する。
ここから映画は、国単位で読める対象になる。
追補|制作本数(概算)
※長編劇映画(約60分以上)を基準とした概算。
制作規模(概算)
1890年代後半:実験的短編中心
1900年代:年間100本規模(短編含む)
1910年代前半:年間200本前後
第一次大戦期:急減
1920年代:年間100本前後
1930年代前半:年間120~150本
1940–44年(占領期):年間60~80本規模
アメリカほどの量産国家ではない。
だが、「量」より「形式」を生み出した国である。
