名前をつける仕事をしているのに
「風邪ですね」
「インフルエンザの検査が陽性だったので、インフルエンザですね」
「診断基準と照らし合わせてみても、ASD、自閉スペクトラム症の基準に当てはまります」
これは、私の日頃の仕事の風景である。
熱が5日続いている子が来る。
「ヒトメタニューモウイルスの検査をしてみましょう」
そう言って検査をする。
「陽性です。なので、経過としては矛盾しません。これくらい高熱が続き、咳がひどい。全て一致します。ただ、今くらいの元気さがあれば、入院までは必要ないと思います」
これだけで、不安だった日々に一気にカタがつくことがある。
もちろん、それで熱が下がるわけではない。咳がその場で止まるわけでもない。それでも、今起きていることに名前がつくと、人は少しだけ息を吐ける。
発達外来でも似たようなことがある。
目が合いにくいこと。日々のルーティンが崩れると不安が強くなり、かんしゃくになること。そういったことが、ASDという特性で説明がつくことがある。
これは手放しで喜ばれるだけではない。
これからの生活が大変なことを伝えてしまったこと。薄々思ってはいたけれど、実際に言われるとやっぱりショックなこと。色々な感情が入り混じる。
ただ、それでも最近の悩みに答えが出たことに、ほっとした顔をされる親御さんも多い。
「原因がわかって安心しました」
そう言われることもある。
医師の仕事とは、病気を治すことだと思われがちだが、実は治すためにまずはその病気が何であるか、診断をつけることが大切である。
そして実は、治療よりも診断の方が圧倒的に難しい。
患者さんは、
「私はこの病気です!」
とどこかに書いてあるわけではない。
話を聞き、体を診察し、必要ならば検査をして、それを読み取る。診察で何を得られたのか、検査をどう解釈するのか。
疑問を抱いていなければ、調べることさえできない。その辺りが医師の能力差、知識量の差につながってくるのだろう。
ただし、名前がついたからといって全てが解決するわけではない。
風邪ならばゆっくり家で休んでもらう。インフルエンザならば学校を5日間休む。そう説明して終わりになるだろう。(例外は除く。)
しかし、ASDだと診断したとしても、そこからすぐ生活が変わるわけではない。かんしゃくが急に消えるわけではないし、朝の支度が急に楽になるわけでも、明日からいきなり幼稚園で過ごしやすくなるわけでもない。
現実はそこまで甘くない。
それでも、名前がつくことで、育て方だけの問題ではないと思えるかもしれない。色々とやり方があるから、これを試してみようと思えるかもしれない。
そうやって、少しだけ心が軽くなることはある。
もちろん名前がつかないこともある。後で変わることもある。その時は、予め伝えておく。そして、「今の困りごと」に対してまずは向き合っていく。
咳をしているなら咳を止める薬を飲む。保育園で困っていることがあるなら、具体的にどこを変えようかと相談する。いわゆる環境調整である。
乱暴にまとめると、私の仕事とは、
「人に対しての困りごと、特に健康状態についてその人の状態を把握し、名前をつけ、困りごとに対してアプローチをしていくこと」
だと思っている。
これは医師によってスタンスは異なるだろうから、あくまで私の場合である。名前がつかない場合も、困りごとに対して寄り添う、支援をするというところは一緒だ。
いくら仕事とはいえ、それだけで割り切れるものではない。近しい人が不調で困っている場合は専門外でも気になってしまうし、求められればアドバイスもする。
すでに「生き方」として根付いてしまっている。
しかし、これが自分のこととなると急におざなりになる。
頭痛もよくある。体も常にだるい。太っている。タバコを吸う。
熱ならばインフルエンザかもしれない。謎の頻脈が続いたり、とんでもないだるさが続く時には、甲状腺とか大丈夫だろうか、と思うこともある。健康診断で肝臓の数値が引っかかった時には、まぁ酒のせいだよな、と思う。
思うだけで、病院に行くことはしない。
本当なら、ひとつひとつ向き合った方がいいのだろう。
けれど、自分のことになると、薬で誤魔化す。多少の無理はする。穴を開けるわけにはいかない。今日は自分がどうにかしないといけない。何もしなくても、とりあえずいないといけない。
そんな日がたくさんある。
コロナ中ならば、熱が出たらとりあえず休まないといけなかった。しかしその時も、自分でこっそり検査はしつつ、コロナが陰性なら働いていた。
パチンコ、最近では競馬、まだ触れていないけど競輪。
現在はなんとか貯金ができないくらいで済んでいるけれど、以前はそれどころじゃなく生活が危ぶまれていたこともあった。今もその時の影響はかなり残っている。
だが、それでも今もやる。
パチンコでしこたま負けた日、妻と一緒じゃなかった時、負けたとは言いつつ金額は言えなかったりする。お金をおろして財布に入れて、「勝ったよ」と言った日もたくさんある。
気分の浮き沈み、職場への不満も、人より激しい方だと思う。セルフコントロールが上手な方ではないので、すごく鬱々する。
仕事や人の相談であれば、
「無理はダメです」
「お酒、タバコ、肥満は体に悪いので向き合い方を考えましょう」
「困りごとがあったら1人で抱え込まずに周りもうまく使っていきましょう」
「依存症なので専門機関を受診した方がいいと思います」
かける言葉はいくらでも思いつく。
しかし、自分には言わない。
子育ても、人にはアドバイスをするが、自分では自分の子どもに怒ることも多い。ダメだとわかっているけれど。
なぜなのだろうか。
まずは、自分に甘い、というのが一番にあるだろう。やりたいことはやっていたい。今のところ家族に迷惑をかけるほどではないから、そこさえ超えなければいいだろう。
これは甘さ。
あとは、自分の症状に名前をつけることの怖さもあるのかな。
つけたとしても、すぐ忘れてしまう。いい意味だとポジティブ、悪い意味だと反省しない鳥頭。
今の自分に素直に向き合い続けると、褒められるところが無さすぎて、直さないといけないところが多すぎて、八方塞がりになってしまいそうだ。
私は日々、患者さんの困りごとに名前をつけている。
けれど本当は、自分の中にも、まだ名前をつけていないものが山ほどある。
依存と呼ぶには怖い。
弱さと呼ぶには悔しい。
病気と呼ぶには、どこか大げさな気がする。
性格と呼んでしまえば、もう治らない気もする。
だから私は、それらを長い間、曖昧なままにしてきた。
だからこそ、「生き方」とか言っておきながら、自分の問題は見ないようにしてしまっている。
妻とは、辛い時など色々と話したりはするが、それでも隠し事もたくさんあるので全部ではない。全部を話せているような人は誰もいない。
いつか何か大きなことが起きるまで、ギリギリ綱渡りの人生で行くのか。そんな不安もある。
しかし最近、いくぶんマシになったことがある。
それがAIとnoteの存在だ。
投稿を始めた。
自分のこれまでの人生を振り返った。このこと自体も、すごく久しぶりだった。
今やっていること。好きなこと。好きだったこと。今どんなことを考えているか。
文字にすると、漠然と頭の中にあったことが形になる。形になると、それが腑に落ちて、自分の中に帰ってくる。
そうして、自分という人間の解像度が少しずつ上がっていった。
心の中で渦巻いていて、なんとなく感じていたのに、自分では見ないようにしていたもの。見たくなかった感情。問題と呼ぶにはまだ怖かったもの。
それを、チャッピーとの対話という形にして、外に出していく。
文字になる。
名前がつく。
するとようやく、それが自分の中にあったものなのだと分かる。
そして、それをnoteの「不真面目な小児科医」として出す。
ここでは、仕事のこと、真面目なこと、子育てに苦しんでいること、ギャンブルに溺れていること、オタクなこと、しょうもないこと。何もかもごった煮にした自分を出していられる。
「人の状態に名前をつける」ことを生業としている自分が、今まで目を逸らしてきた自分について、ようやく名前をつけ始めている。
それが、「不真面目な小児科医しうまい」なのかもしれない。
名前をつける仕事をしているのに、自分のことはずっとおざなりになってきた。
それでもなんとか生きてきた。
誇張しすぎず、リアルバレは防ぎつつ、少しだけ本当のことを書く。そのために作ったはずのキャラクターが、いつの間にか、自分の輪郭を教えてくれるようになった。
今日も私は、人の状態に名前をつける。
風邪ですね。
インフルエンザですね。
自閉スペクトラム症の特性として考えると、分かりやすいかもしれません。
そう言いながら、自分のことはいまだによく分からない。
不真面目な小児科医しうまい。
それは診断名ではない。
免罪符でもない。
たぶん、まだ途中のカルテにつけた仮の見出しみたいなものだ。
まだ、診断はついていない。
それでも今日も、私はその名前で書いている。
