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二次創作における「愛」と「リスペクト」 ~オタク貴族主義的二次創作~

「二次創作」と言うと、「愛がない」「リスペクトがない」といった理由を持ち出し、作品の削除を求める人々がいる。

もちろん、原作や原作者への敬意を求めること自体は、決して間違いではない。
問題は、「愛」や「リスペクト」という言葉に個人の感情や価値観が入り込んだ瞬間、それが他者にも適用できる客観的な基準ではなくなることだ。

「私はこの作品を愛している」
「だから、この二次創作には愛がない」
この二つは、論理的には別の話である。

さらに、
「愛がないから削除しろ」
「いや、俺には愛がある」
「いや、お前には愛がない」
と続けば、もはや議論ではなく「お前が嫌いなだけだろ」という子供の喧嘩に近づいていく。

では、「愛」や「リスペクト」という言葉を完全に捨てるべきなのか。
私は、そうは思わない。
むしろ、それらが二次創作において何を意味するのかを一度分解し、他者にも適用可能な形に置き換える必要があるのではないか。

そこで、オタク貴族主義の考え方を二次創作にも適用してみたい。(事前に先日公開した記事「オタクの貴賤」を読んで頂けるとより理解が深まるかと思います)

そもそも二次創作とは何か

まず、「二次創作」という言葉そのものを定義する必要がある。
二次創作には、法律上あるいは学術上の一枚岩の定義があるわけではない。
そこで本稿では、一般的なオタク文化における意味として、次のように定義する。

「既存の創作物に登場するキャラクター、設定、世界観などを利用し、原作とは異なる内容の漫画・イラスト・小説・動画などの作品を、原作者とは別の者が制作すること」

この定義なら、同人誌だけでなく、イラスト、小説、動画、ゲーム、音楽なども含めることができる。

重要なのは、二次創作とは本質的に「原作をそのまま再現すること」ではないという点だ。
原作に存在する要素を利用しながら、そこに二次創作者自身の解釈や技術、時間、思想を加えて、別の作品を作る。
だからこそ、二次創作には必然的に「原作とは違うもの」が生まれる。
そして、その「違い」こそが二次創作の面白さでもある。


「リスペクト」と「愛」

二次創作を語るとき、「リスペクト」と「愛」は非常によく使われる言葉である。

ある人にとっては二次創作を作る原動力であり、またある人にとっては、ある二次創作を「許容できる二次創作」と「許容できない二次創作」に分ける基準となる。

では、リスペクトとは何なのか。
一般的には「尊敬」「尊重」といった意味で使われる。

二次創作に当てはめるなら、
「原作や原作者を尊重し、その存在を踏まえたうえで二次創作を行うこと」
と考えることができる。

では、「愛」はどうだろうか。
ここでいう愛は、原作者への個人的な感情ではなく、「作品愛」とする。

作品愛とは、特定の作品や原作に対する強い思い入れや愛情、あるいはそこから生まれる執着などを指す言葉として使われる。

ここで、重要な違いが生まれる。

リスペクトは「行動」に落とし込める可能性がある。

原作を明示する。
原作者を自分の作品の作者であるかのように偽らない。
原作の設定を意図的に改変した場合、そのことを隠さない。
原作者が二次創作に関するガイドラインを提示しているのであれば、それを確認する。

こうしたものは、少なくとも外部から確認できる。

一方で、作品愛はどうだろうか。


作品愛は可視化できるのか

ここが、本稿における最大の問題である。
「作品愛があるかどうか」を、第三者が客観的に判断することはできるのだろうか。

例えば、ある人が原作を一度しか見ていないとする。
それでも、その人が描いた二次創作が非常に魅力的だった場合、その作品に「愛がない」と断言できるだろうか。

逆に、原作を何十周もしている人間が二次創作を作ったとして、その作品が原作を侮辱するような内容だった場合、「原作を何度も見ているから愛がある」と判断できるだろうか。

どちらも難しい。

なぜなら、作品愛は制作者の内面に存在する感情だからである。
外から観測できるのは、その人が何をしたかだけだ。

何時間原作をプレイ・視聴したのか。
何冊グッズを買ったのか。
イベントに何回参加したのか。
原作についてどれだけ詳しいのか。
こうしたものは観測できる。

しかし、それらは作品愛そのものではない。
極端な話、「リアルイベントに一度も参加していないからファンではない」という理屈も成立してしまう。

しかし、それは明らかにおかしい。
地方に住んでいる人はどうするのか。
経済的な理由でグッズを買えない人はどうするのか。
作品を知ったばかりの人はどうするのか。

逆に、大量のグッズを購入していても、作品そのものには何の興味もない人間も理論上は存在する。

つまり、
「行動から作品愛を推測すること」と「作品愛そのものを証明すること」は別問題なのである。

したがって、
作品愛は、第三者が客観的に証明できる基準にはなりにくい。

ここから、二次創作を「愛があるかないか」で裁くことの危うさが見えてくる。


キャラクターの「私物化」

二次創作には、避けて通れない問題がある。

キャラクターの私物化である。

二次創作では、原作のキャラクターを使いながら、原作とは異なる性格、関係性、物語を与えることがある。

場合によっては、原作には存在しない性的嗜好や恋愛関係を付与することもある。

これは広い意味では、キャラクターを「自分の解釈によって利用する行為」である。

つまり、二次創作そのものが、ある意味では「キャラクターの私物化」を含んでいる。

しかし、私はこのこと自体を問題視する必要はないと考える。

なぜなら、それこそが二次創作だからである。

二次創作者は、自分の時間と技術を使って作品を制作する。

絵を描く。

文章を書く。

動画を編集する。

場合によっては印刷費を払い、即売会へ参加する。

そこには相応の労力が存在する。

したがって、二次創作者が自分の作品に対して一定の経済的利益を得ること自体を、ただちに「愛がない」と断定することはできない。

問題は、その利益の発生そのものではない。

原作者の権利やガイドラインとの関係、そして二次創作によって生じる具体的な不利益が問題になる。

ここを分けて考える必要がある。


SkebとFANBOX

ここで、二次創作をめぐってしばしば話題になるSkebとFANBOXについて考える。

ただし、ここでは個別サービスの規約や法的責任を断定するのではなく、あくまで「二次創作に対する考え方」という観点から考察する。

Skeb

Skebのようなリクエスト型サービスでは、依頼者が作品の内容を指定し、創作者がその技術を用いて作品を制作する。

ここで重要なのは、「何を作るか」と「それをどのような技術で形にするか」を分けて考えることだ。

例えば、依頼者が特定のキャラクターを描いてほしいと依頼し、創作者がその依頼に応じて絵を制作したとする。
この場合、創作者は自らの技術を提供している。

しかし、それを理由に「だから創作者には一切責任がない」と結論づけるのは早計である。
依頼を受けた側にも、依頼内容を確認し、規約やガイドラインに反しない範囲で制作するという判断があるからだ。

逆に、依頼者がいるからといって、依頼者だけにすべての責任を押しつけるのも適切ではない。

したがって、Skebのようなサービスについて考える場合、

「依頼者と創作者のどちらが悪いか」ではなく、「誰が何を決定し、誰が何を行ったのか」

という責任分解が必要になる。

FANBOX

FANBOXは、創作者を継続的に支援するという性質が強い。
支援者に対して限定コンテンツなどが提供される場合、それを「応援への返礼」と考えることもできる。

しかし、ここには一つの境界線が存在する。

「作品が欲しいから支援する」のか。
「創作者を応援したいから支援し、その結果として作品を見ることができる」のか。

この二つは似ているようで、意味が違う。
もし後者であれば、中心にあるのは「支援」である。
しかし、実態として「特定の二次創作作品を見る権利」を得るために金銭を支払う構造になっているのであれば、それは単なる支援とは異なる性質を持つ。

ここで問題になるのは、金銭を受け取ったかどうかではない。

その金銭が何に対する対価なのかである。

同人誌を販売することも、二次創作作品から利益を得ることも、それだけをもって直ちに「悪」とすることはできない。

問題は、原作者のガイドラインがどのような扱いを求めているか。
そして、その二次創作が原作者や権利者にどのような影響を与えるかである。

つまり、「営利目的だから悪」という単純な話ではない。


二次創作議論における共通の争点

ここまでの議論から、二次創作について考える際に、少なくとも三つの論点が見えてくる。

1. 原作者・権利者への具体的な影響

第一は、原作者や権利者にどのような影響があるのかという問題だ。

「原作者はどう思っているのか」という心理的な推測だけではなく、

「その二次創作によって、権利者に具体的な不利益が発生するのか」

と考える。

売上への影響。
ブランドイメージへの影響。
公式作品との混同。
権利者が禁止している表現との衝突。
こうした具体的な問題は、少なくとも「私は嫌いだから」という感情とは分離して考えることができる。

2. 原作へのリスペクトが外部から確認できるか

第二は、リスペクトである。
ここでいうリスペクトは「作者の心の中に愛があるか」ではない。

むしろ、

「原作を原作として扱っているか」

という外部から確認可能な行動として捉える。

原作者を自分の作品の作者であるかのように扱わない。
二次創作であることを隠さない。
原作者が提示したルールを確認する。
原作の設定を改変したなら、それが二次創作者自身の解釈であることを明確にする。

このような行動は、「愛があるか」という問題よりもはるかに議論しやすい。

3. 二次創作者自身の表現の自由

第三は、二次創作者側の問題である。

二次創作は原作のコピーではない。
原作を利用しながら、二次創作者自身の解釈や技術によって新しい作品を作る行為である。
したがって、原作と異なるからといって、ただちに「愛がない」とすることもできない。

原作と異なるからこそ二次創作なのである。

もちろん、原作を尊重することと、原作を改変しないことは同義ではない。
むしろ二次創作において重要なのは、

「これは原作ではなく、自分の解釈による二次創作である」

という線引きを明確にすることではないだろうか。


感情論を捨てるのではなく、感情論だけで裁かない

ここまで書くと、「では二次創作に感情は必要ないのか」という話になる。

私はそうは思わない。

そもそも「好き」という感情がなければ、二次創作など作らない。

作品への愛情も、リスペクトも、二次創作文化を動かす大きな原動力である。

問題は、それを他人を裁くための客観的基準として使用することだ。

「私はこの作品が好きだ」
これは個人の自由である。

「私はこの二次創作が嫌いだ」
これも個人の自由である。

しかし、
「私はこの二次創作が嫌いだ」

「だから、この作者には作品愛がない」

「だから、この二次創作は存在してはいけない」
となった瞬間、論理が飛躍する。

嫌いであることと、存在してはいけないことは同じではない。
不快であることと、権利を侵害していることも同じではない。
そして、作品愛が感じられないことと、作品を作る資格がないことも同じではない。

ここを分けなければならない。


オタク貴族主義的二次創作

ここまでの議論を踏まえ、私は「オタク貴族主義的二次創作」を次のように定義したい。

「原作と二次創作の境界を理解し、原作者・権利者への具体的な不利益を可能な限り避けながら、自分の解釈と技術によって『好き』を表現する二次創作」

これが、私の考えるオタク貴族主義的二次創作である。

重要なのは、「愛があること」を証明することではない。

愛は証明できない。
だからこそ、愛を証明しようとする必要もない。

必要なのは、

「好きだから作る。しかし、自分の『好き』を理由に他人へ迷惑をかけない」

という姿勢である。

自分の解釈を押しつけない。
原作と二次創作を混同させない。
原作者が定めたルールを確認する。

権利者に具体的な不利益を与えることを避ける。

そして、自分の作品を「原作者の作品」であるかのように振る舞わない。

これならば、二次創作者は「自分には愛があるのか」「他人から愛があると認めてもらえるか」といった不毛な問題に悩まされる必要がなくなる。


二次創作は「好き」の証明ではない

二次創作は、原作への愛情を証明する試験ではない。
原作をどれだけ知っているかを示す試験でもない。
グッズをいくつ持っているかを競うものでもない。
イベントへ何回参加したかを競うものでもない。

二次創作とは、原作から何かを受け取った人間が、それを自分なりの形に変換して表現する行為である。

そこには当然、原作への愛情があるかもしれない。
強烈なリスペクトがあるかもしれない。

逆に、原作を深く知らずに作られた作品もあるかもしれない。

しかし、それを第三者が「愛がある」「愛がない」と裁定することには限界がある。

だからこそ、私たちは「心の中」ではなく、「外から確認できる行動」に目を向けるべきだ。

原作を尊重しているか。
二次創作であることを明確にしているか。
権利者のルールを確認しているか。
具体的な不利益を生み出していないか。

そして何より、

自分の「好き」を他人に押しつけていないか。

これこそが、私の考えるオタク貴族主義的二次創作である。

愛を叫ぶ必要はない。

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