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子どもの絵をみる側のあり方は?

「子どもの絵の本質とは?」

完璧さを求める教育現場で感じた違和感

以前、ある幼稚園にお手伝いを頼まれて赴任したときのことです。
そこは、ある特殊な教育法を実践する、まるで教育研究所のような場所でした。

初めて訪れたときは、本当に驚きました。
子どもたちは皆、きちんと挨拶ができ、静かに座って学習に励んでいるのです。その園から「短期間、作品展の作品を作る手伝いをしてほしい」と依頼された私は、初めて目の当たりにするその教育法に、すっかり心を奪われていました。

教材作りには保護者も協力し、夕方には学童の子どもたちがやってきます。園長先生は「この子たちは空間認識能力が高く、画面にバッチリ絵を収めて描くことができるのよ」と教えてくれました。

実際、子どもたちの絵は驚くほど上手でした。年長児をモデルにしてデッサンしたという絵を見せてもらいましたが、よくある子どもの絵とは一線を画す、5頭身ほどのバランスが取れた見事な写実画だったのです。

「指導者が良ければ、ここまで描けるのです」

園長先生のその言葉に、私はただ圧倒されていました。

大人が用意した「正しい色」

その園では、毎年の作品展に向けて準備を進めていました。
ある日、園長先生が不在のタイミングで、子どもたちが下書きした絵の色塗りを私が任されることになりました。「先生にお任せするわね」と言われ、少しは信頼してもらえたのかな、と嬉しく思ったのを覚えています。

ただし、その園の色塗りには独特のルールがありました。大人があらかじめ絵の具を調色し、絵皿に用意した色だけを子どもに塗らせるのです。

「子ども自身に色を作らせると、めちゃくちゃにするから」

園長先生は苦い顔をしていました。色作りもあれこれ混ぜてはいけない決まりがあり、助手の先生に確認しながら進めましたが、とても難しく感じたのを覚えています。

何より、子どもたちは本当は自分で色を作りたそうでした。
ある子が私に「床をピンクで塗っていい?」と聞いてきました。私が「いいよ」と答えると、その子は本当に嬉そうに、少し興奮しながら床をピンクで塗り進めました。

その日の夕方、描き終えた絵をずらりと並べ、子どもたちと満足感に浸りながら眺めた時間は、とても温かく幸せなものでした。

消えたピンクの床

しかし、次に私がその絵を目にしたのは、作品展の会場でした。
そこで私は、妙な異変に気づきます。私が指導して描いたはずの絵がないのです。よく似てはいるけれど、あのピンクの床の絵はありません。他の子の絵にも見覚えがありませんでした。

「あの後、休みの日に子どもたちを登園させて、描き直させたのよ」

後から園長先生はそう言いました。本当とは違う色(ピンクの床)で描かせたことに、ひどくお怒りだったのです。

「作品展には、研究者の先生方がたくさん来られるのよ」ともおっしゃっていました。園長先生にとって、あの自由な絵は、見学者に見せるには「恥」だったのでしょう。

せっかくの休日に子どもたちを無理に登園させてしまった申し訳なさと、あの笑顔で喜んだ子どもは、やり直しをさせられてどんなに傷ついたろうかと、胸が締め付けられました。

当時の私はまだ若く、中学校や、高等学校で美術を教えたことはあっても、幼児に指導するのは初めてだったこともあり、園が求める高い期待に応えられなかった自分にすっかり自信をなくし、ただただ猛省していました。
「一体、どうするのが正解だったのだろう」という問いは、長い間、私の心に残り続けました。

肩書と固定観念の裏側で

あの園長先生は、有名大学の偉い先生という肩書を持ち、その教育法の第一人者として知られているような方でした。あの教育が素晴らしいものであることも、本当によく分かります。「障害を持った子どもにも、素晴らしい教材ですね!」と私が伝えたとき、元々はそういう子どものために開発されたものだと教えてもらいました。

しかし、後になって私が思ったのは、「あの先生は、実は絵のことを何も知らないのではないか」ということ。そして残念ながら、「子どもの本当の姿についても、よくご存じないのではないか」という、拭いきれない強い印象でした。

園長先生からは、「子どもには、本当のことを教えてあげて」と言われていました。先生のおっしゃる「本当のこと」とは、「木々は緑色」「肌は肌色」というようなことでした。でもそれは、絵の世界においては、かなり狭い考えの固定観念でしかありません。

結局のところ、本来は弱者のために開発されたであろうこの教育法は、そうした対象に使われることはなく、エリート教育の見せ場になっているような気がしました。あの美しく整えられた作品展は「大人の都合」であり、偉い研究者たちに「良いところを見せるため」の舞台だったのではないか――。

これは、私がまだ「子どもの絵の本質」を知る前の出来事です。

子どもの心はどこへあるのか。

あのとき感じた違和感の正体は何なのか。子どもにとって、本当に正しい絵画指導とは何なのか。それを知りたいという強い思いから、私の探究の旅が始まりました。

*第2話「大人の競争に利用される子どもの絵と、奪われる自由」に続く。


【あとがきに代えて】
このお話はずいぶん前の出来事であり、現在はこの幼稚園は存在していません。当時を振り返る形で綴っています。

時代は変わりましたが、「大人の都合」や「見せるための教育」に子どもたちが揺さぶられる構造は、形を変えて今もどこかに潜んでいるかもしれません。この記事を通して、現代の幼児教育や、育児に関わるすべての方に、子どもの自由な表現と、指導側のあり方について考える一つのきっかけをお届けできれば幸いです。

あわせてお読みいただけたら嬉しいです。
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🧵 児童養護施設での絵画ボランティアの取り組み(執筆中エッセイ) ➔ 【『見えない糸』】


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