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創作コラム#18📚同じ問いと答えでも、物語の読み味は変わる――作者とキャラクターの倫理観

物語には、よく「問い」がある。

人は他者を理解できるのか。
愛は人を救うのか。
復讐は許されるのか。
過ちを犯した人間は、やり直せるのか。
自分らしく生きるとは、どういうことか。

こういう問い自体は、別に珍しいものじゃない。

昔から何度も描かれてきたし、作品が最後に出す答えも、短くまとめれば似たようなものになることがある。

「他人を完全に理解することはできない。それでも対話することが大切だ」

「復讐をしても、失ったものは戻らない」

「過去は変えられなくても、これからの選択は変えられる」

言葉だけ見れば、割とよくある答えだと思う。

でも、同じ問いを扱って、同じような答えに辿り着く作品でも、読んだ時の印象は全然違う。

優しいと感じる作品もあれば、冷たいと感じる作品もある。

救われたように感じることもあれば、正論で殴られたように感じることもある。

じゃあ、その違いはどこから生まれるのか。

俺は、作品の読み味を決めるのは、問いや答えそのものだけじゃないと思っている。

作者がその問いをどう見ているのか。

キャラクターが何に悩み、何を選び、どんな失敗をして、どうやって答えに辿り着いたのか。

そこに、作者やキャラクターの価値観や倫理観が出るからだ。

作品の価値観は、結論だけでは分からない

作品の価値観を考える時、つい登場人物の台詞や、最後に出された結論に注目しがちだ。

でも、作中で誰かが語った言葉が、そのまま作品全体の主張とは限らない。

たとえば、「努力すれば夢は叶う」と語るキャラクターがいたとする。

その人が努力のために家族や仲間を犠牲にしていて、最後までその犠牲がほとんど顧みられなかったとしたら、読者が受け取るものは単純な努力賛美ではないはずだ。

逆に、夢に破れた人を描いたからといって、その作品が挑戦そのものを否定しているとも限らない。

何を描いたかと、何を肯定したかは別の話だ。

作品の価値観は、はっきり書かれた主張だけじゃなく、物語の扱い方にも表れる。

誰の痛みを丁寧に描くのか。

誰の言い分に時間を使うのか。

誰の犠牲を「仕方なかった」で済ませるのか。

誰に責任を取らせ、誰にやり直す機会を与えるのか。

何を重大なこととして扱い、何を軽く流すのか。

そういう一つひとつの選択に、その作品の倫理観がにじむ。

「描くこと」と「肯定すること」は違う

暴力を描いたからといって、その作品が暴力を肯定しているとは限らない。

悪人を魅力的に描くことも、悪事を容認することと同じじゃない。

人間の弱さや醜さを丁寧に描くことも、その弱さから生まれた加害を許すことではない。

ただ、作者は否定しているつもりでも、物語の構造としては肯定して見えることがある。

たとえば、あるキャラクターが自分の目的のために他人を傷つけたとする。

作中では「それは間違っている」と言われている。

でも、傷つけられた側の痛みはほとんど描かれず、加害した側だけが悲劇的で魅力的に描かれ、最後には欲しかったものまで手に入れる。

そうなると、読者には「結局、結果さえ出せば許されるんだな」という印象が残るかもしれない。

作者が何を言わせたかだけじゃなく、物語が誰に共感を向け、どんな行動に報酬や代償を与えたか。

そこも読み味を大きく左右する。

作品の倫理観は、正しい台詞よりも、物語がどこに視線を向けたかに宿るんだと思う。

同じ答えでも、辿り着き方で意味は変わる

たとえば、「人を理解するためには対話が必要だ」という答えを出す、二つの物語があったとする。

一つ目の物語では、他人を理解できなかった人物が、愚かな存在として描かれる。

そこへ正しい考えを持った人物が現れ、間違いを指摘する。

最後に本人が反省し、「相手の話を聞くことが大切だった」と学ぶ。

もう一つの物語では、人を理解したいと強く願った人物が、その願いのせいで相手を分かったつもりになってしまう。

救おうとすればするほど、自分の解釈を押しつけてしまう。

相手のために行動しているつもりなのに、相手本人の言葉を聞けなくなっていく。

そして失敗し、誰かを傷つけた末に、自分は何も分かっていなかったと気づく。

その人は最後に、「相手を理解する」のではなく、「分からないままでも相手の言葉を聞き続ける」ことを選ぶ。

どちらも、短くまとめれば「対話は大切だ」という話だ。

でも、読み味はかなり違う。

前者は、「正しい理解を持つこと」が大切だという物語に見える。

後者は、「完全には分からなくても、分からなさを抱えたまま関わること」が大切だという物語になる。

問いも答えも同じだ。

それでも、作品が人間の弱さをどう見ているかによって、答えの温度は変わる。

キャラクターの葛藤が、一般論をその人の答えにする

物語の答えは、一行で書こうと思えば書ける。

「復讐では何も戻らない」

「ありのままの自分を受け入れよう」

「一人で抱え込まず、誰かを頼ろう」

どれも、別に間違った言葉じゃない。

でも、最初からその答えを受け入れられるなら、そもそも物語にはならない。

なぜ、その人は復讐を手放せないのか。

なぜ、自分を受け入れられないのか。

なぜ、誰かを頼るくらいなら、一人で傷つく道を選ぶのか。

キャラクターには、その人なりの価値観がある。

何を恐れているのか。

何を守ろうとしているのか。

何を失った結果、今の考え方に辿り着いたのか。

その価値観に従って悩み、選び、間違い、時には誰かを傷つける。

そして、それまで信じていたものでは進めなくなった時、初めて別の答えと向き合う。

この過程があるから、よくある一般論が、そのキャラクターにしか辿り着けない答えになる。

同じ結論でも、何を失い、何を手放し、何を引き受けてその答えを選んだのかによって、言葉の重さは変わる。

間違えた人間をどう扱うか

作者の倫理観が特に表れやすいのは、キャラクターが間違えた時だと思う。

間違えた人物を悪人として断罪するのか。

つらい事情があったのだから仕方ないと、全部許すのか。

間違いに至った理由には寄り添いながら、起こした行為の責任は別のものとして描くのか。

人を理解することと、その人の行動を肯定することは違う。

事情を描くことと、責任を免除することも違う。

責任を問うことと、その人の人格全てを否定することも同じじゃない。

この切り分け方で、作品の読み味はかなり変わる。

間違えた人間は、罰を受けて退場するしかない。

どれだけ誰かを傷つけても、本人も苦しんでいたのだから許される。

過去にしたことは消えないし、許されるとも限らない。それでも、責任を引き受けて、これからの行動を選び直すことはできる。

どの描き方を選ぶかに、作者が人間をどんな存在として見ているかが出る。

作者とキャラクターの価値観は同じじゃない

作者自身の価値観と、キャラクターの価値観は別物だ。

偏った考えを持つ人物を書いたからといって、作者も同じ考えを持っているとは限らない。

むしろ物語には、作者とは違う価値観を持つ人物も必要だ。

それぞれ違う正しさを持ったキャラクターがぶつかることで、問いは深くなる。

ただ、どの人物をどう描くかを決めるのは作者だ。

誰の主張を反論不能な正論として扱うのか。

反対側の人物にも、それなりの理由と重みを与えるのか。

主人公を正しく見せるためだけに、相手を都合のいい愚か者にしていないか。

キャラクター同士の意見が違っていても、その違いをどう扱うかには作者の視点が出る。

作者の倫理観って、自分の意見をキャラクターに代弁させることではないと思う。

違う価値観を持つ人間たちを、物語の中でどう扱うか。

そこに作者の姿勢が表れるんじゃないだろうか。

問いの新しさより、向き合い方

創作をしていると、「このテーマ、もう誰かが書いてるよな」と不安になることがある。

実際、人間が物語の中で問い続けてきたことは、そこまで多くないのかもしれない。

愛とは何か。

正義とは何か。

人を理解するとは、どういうことか。

人は過去を乗り越えられるのか。

罪を犯した人間は、やり直せるのか。

俺たちは、何度も同じ問いを物語にする。

それでも、全ての作品が同じにはならない。

誰の痛みを見るのか。

何を許し、何を許さないのか。

人間の弱さを断罪するのか。

弱さを理由に、全部許すのか。

それとも、弱さを理解しながら、それでも選び直す可能性を描くのか。

キャラクターが何を信じ、何に迷い、誰を傷つけ、何を失い、最後にどんな行動を選ぶのか。

物語の読み味を変えるのは、問いの珍しさだけじゃない。

同じ問いに対して、作者とキャラクターが、どんな価値観と倫理観で向き合ったのか。

答えそのものより、そこへ辿り着くまでの眼差しに、その作品だけの物語が宿るんだと思う。

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