第一章 9話 赤いレンガの檻、消えた私の名前 _「5番!」と叫ぶ屈辱と、静寂の中に響く隣室の気配
警察署での生活に、ようやく少しだけ慣れ始めていた頃だった。
あんなに嫌でたまらなかった場所なのに、そこを離れると言い渡されたとき、胸の奥に微かな、それでいて切ない寂しさがこみ上げた。
それは、ここを出るということは、さらに深く、後戻りのできない「絶望の核心」へと連れて行かれることを本能で察していたからかもしれない。
車に乗せられ、冷たい手錠が手首に食い込む。
30分ほど走っただろうか。
窓の外に現れたのは、空を突き刺すような高い塀と、異様な圧迫感を放つ赤いレンガの建物だった。

そこは、歴史を感じさせる美しい洋館のようにも見えたが、一歩足を踏み入れれば、慈悲など一切存在しない「管理」の場所だった。
中に案内されると、気の遠くなるような長い廊下が続いていた。
レンガの壁と鉄格子が延々と続くその光景は、外の世界とは完全に遮断された異空間だった。
古い建物特有の、湿り気を帯びた芯から冷えるような空気が、私の肌を刺す。
体重、身長、指紋……私のすべてが「データ」として採取されていく。
そして、またあの屈辱的な検査。
裸になり、隅々まで調べ上げられるその時間は、私という人間から最後の「プライド」を剥ぎ取っていく作業のようだった。
案内された独居房の扉は、厚さが20センチほどもある重厚な木造だった。中央には、食事を通すための小さな口が、開いている。
中に入ると、わずか一畳半ほどの空間に、小さな机と布団、そして端にむき出しのトイレ。
私はそこで、ただ一人、自分の罪と向き合うことを強制されたのだ。
窓は高い位置にあり、見えるのは切り取られた狭い空だけだった。

何より嫌なことは、朝夕に行われる「点検」だった。
未決の収容者数十人が、それぞれの部屋の中で正座をさせられる。
静まり返った館内に、突如として看守の怒鳴り声が響き渡った。
「点検!!」
遠くの部屋から、収容者たちの声が次々と返ってくる。
「番号!」
「〇〇〇番!」
「番号!」・・・
足音と共に、その怒声が刻一刻と私の部屋へ近づいてくる。
心臓が脈を打ち、指先が冷たくなる。
名前を捨て、記号として生きることを強要される儀式。
この極限の緊張感の中で、私は自分の番を待った。
目の前の扉が激しく開かれた。
「番号!」
「……五番!!」
張り裂けんばかりの声で叫ぶ。
その瞬間、私は自分が「21歳の女性」であることを完全に失い、
ただの
「五番」
という数字に書き換えられたことを思い知らされた。
食事は、山盛りに盛られた麦ご飯と味噌汁、おかず。
警察署の弁当とは違い、ずっしりと重く、独特の匂いが鼻をつく。
それを一畳半の空間で一人、黙々と口に運ぶ。
一日のうち、わずか数十分だけ許される中庭での運動時間。
高い塀の上には鉄条網が張り巡らされ、空はさらに遠く感じられた。
隣を歩く他の収容者たちの顔は、皆一様に感情を失っているように見えた。

ある時、女性看守からこんなことを聞かされた。
「あなたの隣の部屋、何で捕まってるか知ってる? 殺人を犯した人だよ」
取り返しのつかない過ち。
私の心は驚くほど冷静だった。
動揺するエネルギーさえ、もう残っていなかったのかもしれない。
ただ、壁一枚隔てたすぐ隣に、許されない罪を犯した人間が息を潜めている。
その同じ空間に、魔法に逃げただけの自分が収容されているという事実に、私は深く考えさせられた。
世間から見れば、私も隣の住人も、等しく
「こちら側の世界」
に落ちた人間なのだ。
看守の声が続く。
「女子刑務所へ行くほとんどがは薬物。残りは殺人罪……。あなたも、このままじゃ刑務所に行くよ」
その残酷な未来図を突きつけられたとき、言葉を失った。
ここでの私の唯一の楽しみは、彼からの手紙だった。
何通も届く、見慣れた彼の筆跡。
社会から排除され、「5番」という記号に成り下がった私を、彼は依然として一人の「私」として繋ぎ止めてくれた。
家族に拒絶され、自分という存在が消えかけている今、私の名前を呼び、外の世界との細い糸を繋いでくれるのは、彼だけだった。
彼から届いた三万円と、何通もの手紙。
それは救いなどではなく、私をさらに深い依存の沼へと沈める重石(おもし)でしかなかった。
けれど、この暗闇の中で自分を見失わない為には、
その手を手放すことなど、今の私には到底できなかった。
だが、この静寂さえも、次なる場所で私を待つ「検察官の咆哮」(ほうこう)に比べれば、まだ序の口に過ぎなかった。
*これは実際におきたこと
次回、10話
検察官の怒号、汚された「正義」
―正解のない地獄で、私は自分の責任だけを握りしめていた。
