第二章 14話(35話) 狂気に勝る反撃ICレコーダーの罠 _仕組まれた美人局(つつもたせ)薬に溶け消えた威厳
平日は毎日、決まった時間になると移動販売車で珈琲を売りに行った。
頭の中では相変わらず、無数の他人の声が響き渡り、監視の目が私と完全に一体化していた。
すでに発症してから5年ほどの月日が流れていた。
これが異常な状態であることは、痛いほど分かっていた。

「これが治れば、私はごく普通の人間になれるのに――」
心の底で、ずっとそんな卑屈な思いを抱えていた。
けれど当然の様に
自分の頭の中で、誰にも説明のつかない恐ろしい現象が毎日毎秒繰り広げられているのだ。
逃げ場などどこにもなく、1秒たりとも心が休まる瞬間はない。
逃げられない毎日が続くうち、その異常さが自分にとっての
「当たり前」
になり、どこかで諦めてしまっている自分もいた。
けれど、他人の前では
「頭がおかしい奴」
と思われるのが絶対に嫌で、必死に
「普通」
を装い続けた。
脳内では、目の前の相手に対して
「この人は何も分かっていない」
「おかしい」
という声が終始聞こえ、身勝手な悪口が勝手に繰り広げられている。
それでも私は、表面上は穏やかな顔をつくり、平静を装っていた。
誰の目もない暗闇で泣くことすらできず、いつだって苦しく、激しい孤独の中にいた。
そんなギリギリの日常の中に、悪意は静かに踏み込んできた。

ある日、仕事を終えて家に帰ると、見知らぬ空気が部屋に漂っていた。
刑務所で知り合ったという男の「嫁」を名乗るあの女が、一人で我が家に上がり込んでいたのだ。部屋には彼と女の二人がいた。
「どうしたの?」
驚いて尋ねると、女は彼のことで相談があって来たのだと言った。
その時の私は何の疑いも抱かなかった。
けれど、後から思えば、妻である私に一切の連絡もなく、女が一人で家に上がり込んでいること自体、極めて不自然なことだったのだ。
それから数日後の、午後3時頃。
仕事が終わり、家で身体を休めていた時に、インターホンが鳴り響いた。
玄関のドアを開けると、そこにはあの男と、チンピラのようなガラの悪い男の二人が立っていた。
「なんですか? 主人に用ですか?」
私が冷ややかに尋ねると、男は言った。
「いや、奥さんにだ」
「なんですか?」
重ねて問い詰める私に、男は信じがたい言葉を口にした。
「おたくの旦那が、俺の嫁を犯したんだよ」
部屋にいた彼に問い正すと、彼は消え入りそうな声で言葉を返した。
(… 。)
「で……なんですか?」
私が冷たく聞き返すと、男たちは
「誠意を見せろ」
と凄んできた。
「誠意とは、なんですか?」
押し問答を何度も繰り返したが、やはり話にはならなかった。
私はこの話をしながら考えていた。

自分の女が本当に犯されていたのなら男が金だけで解決して許すはずがない。
彼らは初めから「誠意」という名の金を引き出すつもりでやって来た。
典型的な美人局(つつもたせ)だった。
私は
「後日、その女を連れて来い」
と言い放ち、ドアを強く叩きつけた。
男たちが去った後、部屋の中には重苦しい静寂が落ちた。
形はどうあれ彼があの女と関係を持ったという事実は変わりない。
行き場のない激しい憤りと悔しさが、胸の奥で渦巻いていた。
私はその感情をぶつけるように、怒りに任せて彼を叩きのめした。
思い出すたびに、毎日毎日、彼をどつき回した。
けれど彼は反論もせず、ただ黙って私の怒りを受け止め、耐えてくれていた。
それだけは、よく我慢してくれたと思う。
だが、私の心の中には、もうひとつの奇妙な感情が芽生えていた。
私とLINEを交換し、友人面をして近づきながら、裏で私の留守を狙って家に上がり込み、美人局(つつもたせ)を仕掛けてきた奴ら。
現実世界で私たちを舐めきり、馬鹿にしてきたあの男たちを、私は被害者という絶対的な立場から徹底的に叩きのめし、言い負かすことができる。
ずっと、私の頭の中では「声」が私を攻撃し、言い負かし、弱い自分を惨めにさせてきた。
何年も何年も、私は脳内の声に対して無力で、弱い存在で居続けるしかなかったのだ。
けれど――
現実のこの世界で、私を陥れようとする悪党たちに対して、私は圧倒的に強い立場で言葉を叩きつけることができる。
屈するどころか、自分自身の力で彼らを完全に言い負かすことができるという事実が、どこか胸のすくような、密かな嬉しさを私に与えていた。
私はICレコーダーを用意し、日付と録音ボタンを確認すると、準備万端で指定のファミレスへと向かった。
ファミリーレストランのボックス席。
テーブルを挟んで向かい合い、私はバッグから静かにICレコーダーを取り出し、彼らの目の前でスイッチを入れた。
「今日の日付と、あなたたちの名前をまず言ってください」
録音されていることを突きつけられ、男たちの顔に露骨な動揺が走る。
私は泣きじゃくる女に向かって、アイスピックのように鋭い言葉を突き刺した。
「本当に犯されたの? じゃあ、なぜ私に黙って一人でうちに来たの? 答えて」

女はポロポロと涙を流し、俯いたまま何も答えることができなかった。
泣いて許されると思ったら大間違いだ。
私は一筋の涙にも揺らがなかった。
「で、さっきから言っている『誠意』って何ですか? 具体的にいくら欲しいんですか?」
言い逃れのできなくなった男たちは、言葉を詰まらせ、互いに顔を見合わせるばかりだった。脅せば簡単に金を出して屈するだろうと思っていた私という人間が、あまりにも冷静に、完璧な準備をして詰め寄ってきたからだ。
沈黙が流れるテーブルで、私は冷ややかに笑い、トドメとなる決定的な一言を突きつけた。
「何も答えないなら、結構です。私もあなた方を恐喝で訴えますね。それと――今からこの録音データを持って、そのまま警察に行きます」
「警察」という二文字を口にした瞬間、男たちの顔から一瞬で血の気が引いた。目に見えて狼狽し、居心地悪そうに席を立つ準備を始めた。
後に知ったことだが、私以外の人間――彼も、あの男も女も、全員が陰で覚醒剤に手を染めていたのだ。

警察へ駆け込まれれば、自らの薬物使用まで発覚してしまう。
彼らは警察が怖くて、これ以上何もできなくなったのだ。
こうして、卑劣な美人局の話は、警察を恐れた彼らの失踪とともに、自然と消えてなくなった。
ファミレスを出た夜の空気の中で、私は強く確信していた。
現実の私は、決して弱くない。
自分が怖いくらい怖いものが無いと。
この事件を境に、彼の立場は完全に失われた。
私に対して完全に顔が上がらなくなった彼は、急激に大人しくなっていった。
そして彼は、精神科から多量に処方された睡眠薬や向精神薬を、提示されたままの過剰な量で飲み漁るようになっていった。

一日中泥のように眠り、起き上がっても薬の後遺症でろれつすら回らない。
かつて見せていたあの賢さも、溢れるような勢いも、すべてが白い薬の中に溶けて消えていた。
私が心から尊敬し、頼りにしていた男の面影は、そこにはもうどこにもなかった。
私はただ、目の前で崩れていく男の姿を、冷めた目で見つめ続けていた。
✴︎これは実際におきたこと
つづく
