第二章 1話(22話) 甘い罠の崩壊 _戻れない禁忌の選択と姿を現した真の生き地獄
その瞬間、頭の中の雑音が消えた。
薬物の反動による重苦しさも、常に付きまとっていた不安も、どこかへ吸い込まれるように消えていった。
聞こえてきたのは、左耳の下。
そこから、今まで聞いたこともないような穏やかで、崇高な女性の声が響いた。

『あなたは、特別なの』
それは脳内での想像ではなく、物理的にそこから聞こえる確かな音だった。
慈愛に満ちたその響きに、私は瞬時に支配された。
「私は特別なのだ」
そう思い込むのに、時間はかからなかった。
それから一ヶ月ほど、私はかつてない幸福感の中にいた。
薬物を使った時の激しい高揚感とは違う。
体がふっと軽くなり、世界が透き通って見えるような、静かな充足感。
目の前の景色が、幸福というフィルターを通して輝いて見えた。
私は、自分だけが誰も知らない「真実」を手に入れたのだと感じていた。
隣にいる男に対しても、以前とは違う感情が芽生えていた。
心の中には「自分は特別だ」という揺るぎない芯が通り、左耳の下で囁き続けるその声に、私は依存するように聞き入っていた。
その音が聞こえ始めてから、私は薬物をやめていた。
あんなに抗えなかった白濁した快楽よりも、この透き通った声に守られている時間の方が、ずっと尊かったからだ。
彼女は、私のすべてを肯定し、寄り添ってくれる。
けれど、幸福は脆い。
ある日のことだ。
心の中に、ふっと魔が差した。
身体が記憶しているあの衝撃が、微かな疼きとなって蘇る。
ダメだと分かっていた。
何より、彼女は私のすべてを知っている。
薬物が「悪いこと」であることなんて、彼女に教えられるまでもなく知っていた。
彼女は黙っていた。
(もしこれを使ったら、彼女は呆れて、どこかへ消えてしまうのではないか……)
そんな恐怖と罪悪感が胸を締め付ける。
見放されたくない。
この幸福を失いたくない。
けれど、身体の渇きは私の理性をじわじわと侵食していった。
罪悪感に震えながら、私は結局、身体の魔力に負けた。
「一度だけ、一瞬だけなら」
そう自分に言い訳をして、再び針を刺した。
一瞬の多幸感。
いつもなら、そこからさらに「崇高な彼女」の声が輝きを増すはずだった。

けれど、現実は残酷だった。
快楽が駆け巡るのと同時に、世界の色が急激に濁り始めた。
左耳の下に住み着いていた、あの慈愛に満ちた女性の声が、不意に遠ざかっていく。
「行かないで」
と願う私の叫びは届かない。
代わって私の耳元に流れ込んできたのは、ひどく生々しく、泥臭い「知っている人間たち」の合唱だった。
地元の友人、疎遠になった親、夜の街で顔を合わせる知人たち。
彼らの声が、まるで壁一枚隔てた隣の部屋で私の噂話をしているような、恐ろしい鮮明さで響き始めた。
(……え? なんでみんなの声がするの?)
最初は、ただの妄想だと思った。
薬が効きすぎて、一過性の幻聴を見せているだけなのだと、自分に言い聞かせた。
「薬が抜ければ、またあの崇高な彼女の声に戻るはずだ。この醜いノイズは消えるはずだ」
そう信じて、私は薬が切れるのをじっと待った。

けれど、現実は無慈悲だった。
数日が経ち、薬が体から抜けていっても、声は一向に止まなかった。
それどころか、声の輪郭はますますはっきりとし、私の意識を土足で踏み荒らすようになっていった。
幸福だった一ヶ月間が、まるで遠い前世の出来事のように感じられた。
耳元から聞こえてくるのは、もはや私を称える音ではない。
友人たちが私の過去を嘲笑い、親が私の不甲斐なさを嘆き、知人たちが私の失態を指差して笑う。
そんな、悍(おぞ)ましい会話の断片だった。
恐怖が、冷たい汗となって背中を伝った。
外面では「いつもの私」を装い、鏡の前で表情を整えてはいても、内側ではパニックが渦巻いていた。
声は、私が今何をしようとしているのか、何を考えているのかをすべて把握していた。
「今、怖いと思ってるでしょ」
「隠したって無駄だよ、全部見知ってるんだから」
これまで感じていた全能感は、瞬く間に

「逃げ場のない絶望」へと塗り替えられた。
私は、自分が特別なのだと思い込んでいた。
けれど、現実は違った。
私は選ばれたのではなく、見つかってしまったのだ。
24歳の春。
まだ肌寒い風の中で、私は上着の襟を強く握りしめた。

昨日までの「特別な私」は死んだ…。
目の前に広がっているのは、薬をやめても、どれだけ叫んでも、決して消えることのない声に支配された「生き地獄」の景色だった。
耳元で囁き続ける友人たちの声が、私を嘲笑うように高らかに響く。
私は、自らノックした地獄の門の、そのさらに奥にある深淵へと、真っ逆さまに落ちていった。
✴︎これは実際におきたこ
続く
