二元構造という生成装置――岩田慶治のアニミズム論 ~思弁的+M
第三項として存在するということ
凡ゆるモノは、二項を機会原因とする第三項として存在する。
ここでいう第三項は、二つの項を足し合わせた結果でも、対立する二項をより高次の地点で統合したものでもない。
AとBがあり、その論理的帰結としてCが生じるのではない。
AとBは、Cを産出する十分原因ではなく、Cが出来するための機会原因にすぎない。
したがって、第三項の具体的な在りようは二項から完全には演繹できず、そこには常に偶然性が残る。
この点は重要である。もしAとBから必ずCが生じるのであれば、CはAとBのうちにあらかじめ含まれていたことになる。
その場合、第三項は本当の意味で「第三」ではない。二項の潜在的な内容が顕在化しただけだからである。
しかし、ここで考えたい第三項はそうではない。二項が接合したという事実は第三項の出現を可能にするが、その具体的な姿までは決定しない。
AとBは、何かが起こるための条件ではあっても、何が起こるかを一義的に決める原因ではない。だからこそ「機会原因」という語が必要になる。
そして、凡ゆる存在がこの仕方で存在しているのだとすれば、そこにはもう一つの必然性が見えてくる。
何が出来するかは偶然であるが、何かが出来すること自体は必然である。
偶然的な接合が生じ、その接合を機会として第三項が立ち現れ、その第三項がさらに別の接合の一項となる。
存在とは、固定した実体が持続することではなく、接合と出来が反復されることとして捉えた方がよい。
モノは最初から完成した単位としてそこにあるのではなく、何らかの接合のなかで、その都度ひとつのモノとして立ち現れる。
そして、その立ち現れたモノもまた固定された終点ではなく、次の接合に開かれている。
存在は、実体の安定した持続ではなく、第三項が連鎖的に出来し続ける運動である。
ここで重要なのは、二項そのものではない。二項の「あいだ」で何が出来するかである。
二項は世界を二つに分割するために置かれるのではない。世界が第三項として立ち現れるために置かれる。この意味で二項は、存在を切断する装置ではなく、存在を生成する装置なのである。
二元構造と二元論
この観点から見れば、「二元構造」と「二元論」は明確に区別されなければならない。
二元論とは、二項を実体化する思考である。主体と客体、自然と文化、聖と俗、此の世と他界といった二項が、それぞれ独立した存在領域として固定される。
二項が固定されれば、その後に問題になるのは両者の関係である。どちらが根源的なのか、どちらが他方を規定するのか、両者はどのように媒介されるのか。思考は二項の存在を前提にし、その架橋を課題とする。
だが、ここで言う二元構造はそうではない。二元構造において二項は、固定的な二つの実体ではなく、第三項を出来させるための布置である。
例えば聖と俗という二元構造において、重要なのは聖と俗が二つの世界として存在することではない。聖と俗の往還を通じて、その社会に固有の世界がその都度出来することである。
此の世と他界も同様である。他界は此の世とは別個の実体的領域として存在するのではない。他界との接触、往還、語り、祭礼を機会として、此の世そのものが新たに此の世として立ち上がる。
この違いを別の言葉で言えば、二元論では「二つあること」が問題なのに対して、二元構造では「二つ置くこと」が問題なのである。
二元論は二項を存在論的事実として受け取る。これに対して二元構造は、二項を生成のための仕掛けとして機能させる。
だから二元構造では、二項のどちらかが絶対的な本体である必要はない。むしろ両者が反転し、入れ替わり、往還することによって、第三項としての世界が立ち現れる。
したがって、二元構造は二元論の未発達な形態ではない。
むしろ逆である。二元構造とは、二項を固定することなく運動させ、そのあいだから第三項を出来させることによって、二元論への硬直を回避する生成装置だったと考えることができる。
岩田慶治――柄と地としての二元構造
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