慕われるジジイと嫌われるジジイ

「耳順」という言葉がある

『論語』に、「六十にして耳順う(したがう)」という有名な言葉がある。一般には、「人の話を素直に聞けるようになる」と説明されることが多い。しかし私は、それだけでは少し物足りないように思う。

耳順とは、単に聞き上手になることではない。他人の意見に迎合することでも、ただ丸くなることでもない。それは、自我が過剰に反応しなくなることである。

人は若いうちは、人の話をただ「聴く」ことがなかなかな難しい。「聴く」より先に「反応」してしまう。
批判されれば腹が立つ。価値観の違う人に出会えば身構える。知らない考えに触れれば否定したくなる。

しかし長い時間をかけて学び、人と交わり、失敗し、反省を重ねるうちに、自我は少しずつ透明になっていく。
すると、人の言葉が自分の防衛を通さずに耳へ届くようになる。

私は、この状態を「耳順」と呼んだ孔子の洞察は、現代の心理学でいうバウンダリーや成熟した人格とも深く響き合うものだと思っている。
そして、この「耳順」という視点から眺めると、慕われるジジイと嫌われるジジイの違いも、驚くほど鮮やかに見えてくる。

嫌われるじじいは「経験を“甲羅”にしている」

慕われるジジイと、嫌われるジジイの違いは、経験の量でも、知識の深さでも、社会的地位でもない。
決定的なのは、その人が「耳順」の段階にあるか、それともただ自我が固まって頑固になっただけか、という点である。

歳を取れば、誰でも経験は増える。しかし経験は、そのままでは知恵にならない。
経験は、反省され、他者の言葉にさらされ、自分の思い込みを照らされることで、初めて知恵になる。
反対に、経験が自我を補強する材料にしかならなければ、それは知恵ではなく甲羅になる。

慕われるジジイは、経験を知恵に変えている。嫌われるジジイは、経験を甲羅にしている。この差は大きい。

慕われるジジイは、聞くことができる

慕われるジジイは、人の話を素直に聞く。
ただし、若者の意見に何でも同意するという意味ではない。迎合するわけでも、自分の経験を捨てるわけでもない。自分の経験を持ったまま、相手の言葉を受け取ることができる。

自分と違う感性に触れても、すぐに否定しない。理解できない言葉に出会っても、「最近の若者は」と雑に切り捨てない。そこに何か、自分にはまだ見えていない世界があるのかもしれない、と自然に思うことができる。

一方、嫌われるジジイは、聞いているようで聞いていない。相手が話し始めた瞬間に、もう自分の答えを用意している。若者の言葉は、新しい世界への入口ではなく、自分の正しさを確認する材料でしかない。
知らない言葉は軽薄に見え、新しい価値観は甘えに見え、違う生き方は未熟であるように見える。
つまり彼は、他者の声を聞いているのではなく、自分の自我の反響を聞いている。

自我が透明か、固まっているか

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