世界に一つの台本
放課後の教室にはまだ夕陽が残っていて、黒板に射す橙色の光がゆっくりと伸びていった。演劇部の公演まであと二週間。僕――〇〇は脚本担当として、今日も白紙に近い紙とにらめっこしていた。
「また難しそうな顔してる」
後ろから声をかけてきたのは、クラスメイトの いろは。小柄で、ふわりとした雰囲気をまとっているけれど、話してみると意外なくらい芯が強くて、自分の意見をはっきり言える女の子だ。普段は穏やかで笑顔が多いけど、楽しいことにはまっすぐに飛び込んでくるタイプ。
「脚本、まだできてないの?」
「まあ……ね。アイデアが固まらなくて」
「ふふっ。〇〇って、悩む時すごく眉間にしわ寄るよね。絶対将来シワできるよ?」
いろはは僕の正面に来ると、机に肘をついて覗き込んでくる。彼女の距離が近いと、どうしても心臓が無駄に騒がしくなる。
「で、どんな話にしたいの?」
「出演者多いからバランス取らないとだけど……うーん」
「ねぇ。今日、帰りに公園寄らない? そこで考えよ?」
唐突だけど、いろははいつもこんな感じだ。気になるとすぐ動く。
断る理由もない僕は、彼女と並んで校門を出た。
***
夕方の公園は子どもたちの姿もだいぶ減っていて、ブランコの鎖が風に揺られる音だけが響いていた。いろはは靴を軽く蹴ってブランコに乗り、ゆらゆらと揺れながら言う。
「ねぇ〇〇。脚本って、どうやって考えてるの?」
「どうって……大まかなテーマ決めて、そこに必要な要素並べて、話の流れ作って……そんな感じ」
「ふーん。なんか、料理みたいなんだね」
「料理?」
「だってさ、材料そろえて、味付けして、おいしくなるように順番考えて……ほら、似てない?」
いろはは揺れながら笑い、夕陽の光を受けて髪が柔らかく輝いた。
「でもね、わたしはさ――」
ブランコを止め、僕のほうをまっすぐ見る。
「脚本って、“誰かの気持ち”が一番のお話だと思うの」
その言葉は、妙に胸に残った。
「誰かの気持ち……?」
「うん。わたし、舞台とか映画とか見るとね、その人がどんな気持ちでそのセリフ言ってるかとか、どんな過去があるのかとか、そういうの考えるのが好きなの。台本って、その人の心を描くものじゃん?」
彼女らしい。奥田いろは――柔らかいけど、芯の部分はすごくまっすぐな子だ。
「〇〇の脚本、わたし好きだよ。だって、いつもちゃんと気持ちが伝わるもん」
「……ありがとう」
「だからさ。今回は〇〇自身の気持ちを入れたほうが、きっといいんじゃない?」
「僕自身の?」
「そう。世界に一つだけの台本を作るなら、〇〇の中にある気持ちがいちばん大事だと思うよ?」
いろはの言葉に、胸の奥がぐらっと揺れた。
僕が本当は何を書きたいか。
それは――“ある誰か”のこと。
でも、それを脚本にするなんて、恥ずかしすぎる。
「……難しいよ。それ」
「なんで?」
「だって……想いがバレたら、恥ずかしいだろ」
言った瞬間、いろはが少しだけ目を丸くした。
「想い、あるんだ?」
しまったと思った。けれど、いろはは急に笑みを深めて、靴のつま先で地面を軽く蹴った。
「ねぇ〇〇。その“想いの相手”って、同じクラスの子?」
「まぁ……そうだけど」
「ふーん。髪長い子? 短い子?」
「いや、そんな質問する?」
「する~。気になるんだもん」
いろはは無邪気に笑って見せるけれど、なぜか瞳の奥が少しだけ真剣だった。
「で、どんな子なの?」
「……明るくて、よく笑ってて。でも意外と真面目で、自分の意見ちゃんと言える子」
「へぇ。いい子じゃん」
「うん。ほんとに」
「ふーん……」
いろはは視線を下に落とし、スニーカーの先で砂をなぞった。
その横顔はなぜか少し寂しそうに見えた。
「ねぇ〇〇。もっとその子のこと、聞いていい?」
「……別にいいけど」
「じゃあさ。その子の、どんなところが好きなの?」
どきっとした。まっすぐすぎる質問に、逃げ場がない。
「……全部、かな」
言った瞬間、いろはがぴくっと肩を揺らした。
夕陽が沈みかけ、空の色が紺に変わる。ブランコの鎖がカランと鳴り、いろはは静かに言った。
「それって……」
一拍おいて、僕の方を向く。
「――わたし、じゃダメかな?」
世界が完全に止まったような気がした。
いろはは、いつもの笑顔でも、ふざけた調子でもない。
ただ、真剣に僕を見ている。
「いろは……」
「〇〇の脚本、好きだよ。だってさ――」
彼女はブランコから降り、一歩、僕に近づく。
「いつも〇〇が誰かを大切に思ってる気持ち、ちゃんと伝わるから。だからね……もしその“誰か”がわたしだったらいいのになって、ずっと思ってた」
反則だ。そんな顔されたら。
「いろは……その、僕も……」
言葉が喉でつかえ、苦しいほど胸が熱くなる。
いろはは待つように、少しだけ首をかしげている。小さな体なのに、まっすぐな想いはこんなにも強い。
「好きだよ。ずっと前から」
告げた瞬間、いろはの目がゆるみ、頬がふわっと赤く染まった。
「……言ってくれるまで、長かったんだから」
彼女は照れくさそうに笑いながら、僕の袖を少しだけ掴んだ。
その仕草があまりにいろはらしくて、胸が締め付けられた。
「ねぇ〇〇。脚本さ」
「うん?」
「わたしたちの話、書いてみない?」
「僕たちの?」
「だってそのほうが、“世界に一つだけの台本”になるでしょ?」
その笑顔を見て、本当にそうだと思った。
この瞬間を超える物語なんて、他に存在しない。
「……わかった。いろはと僕の物語、ちゃんと書くよ」
「えへへ。約束ね?」
夕闇の公園で、いろはの手がそっと僕の手に重なった。
あたたかくて、小さくて、でも確かに僕を掴んでくれる手。
「ねぇ〇〇。明日から、ちゃんと“恋人”として接してよ? わたし、遠慮しないから」
「こっちの台詞だよ」
ふたりで笑った瞬間、風が吹いて、落ち葉が舞った。
世界は変わらないままなのに、僕の世界は確実に色づいていく。
――世界に一つの台本は、今ここから始まった。
