短編連載 護送の銀光①
*本小説は①から⑧までの連載です。
① 羽田の朝
ある年の夏。
羽田空港第二ターミナルの出発ロビーには、朝特有の湿り気を含んだ熱気が漂っていた。
天井の高い空間に、アナウンスの声とキャリーケースの車輪が床を擦る音が混じり合い、旅立つ人々のざわめきが波のように広がっている。
川森雅一、この年の5月が誕生日で、二十二歳。
都内の大学に通う四年生で、来春からは東京の貿易会社に就職が内定していた。
内定通知を受け取ったときの胸の奥の緊張がようやくほどけ、肩の力が抜けたような気分だった。
その安堵の余韻を抱えたまま、雅一は久しぶりに北海道へ一人旅に出ることにした。
岩見沢に嫁いだ二歳上の姉の家に顔を出す予定だ。そして夕張に行こうと思う。かつて家族で暮らした町だが、今は誰も住んでいない。
炭鉱の閉山とともに人が減り、町の灯りも少なくなった。
それでも雅一にとっては、幼い頃の記憶が詰まった場所だった。
「……よし、行くか」と独り言を言い、雅一は手荷物を肩に掛け、搭乗口へ向かう。
ANA060便、八時三十分発。行き先は新千歳空港。
搭乗口前のベンチには、家族連れやビジネスマン、夏休みの旅行らしい学生たちが思い思いの表情で座っていた。
雅一は、ふとガラス越しに見える滑走路に目を向けた。
朝日が機体の白い胴体に反射し、眩しく光っている。
その光景に胸が少し高鳴る。旅の始まりを告げる儀式のようなものだ。
搭乗開始のアナウンスが流れ、列がゆっくりと動き始めた。雅一もその列に加わり、搭乗橋を歩く。
機内に入ると、冷房のひんやりとした空気が肌を撫でた。
座席は後方右側の三列シートの通路側だ。窓際にはすでに中年の男性が座っており、軽く会釈をしてきた。雅一も会釈を返し、手荷物をオーバーヘッドビンに収納した。
席に腰を下ろし、シートベルトを締める。
機内はほぼ満席で、乗客たちの話し声が小さく重なっていた。
雅一は、一時間ほど眠れるだろうと考えていた。
昨夜は旅の準備で遅くまで起きていたのだ。だが、その予想はすぐに裏切られることになる。
搭乗がほぼ終わった頃、最後に三人の男性が機内に入ってきた。
三人とも無言で、周囲に視線を向けることなく歩いてくる。
二人は背広姿で、肩幅が広く、歩き方に無駄がない。
もう一人は、年齢は三十代後半ほどか。無造作に上着を腕に掛け、顔色はやや青白い。
三人は雅一のすぐ前の席に座った。
窓際に膝に上着を掛けた男、通路側に背広の二人。その瞬間、雅一は胸の奥に小さな違和感を覚えた。
——なんだろう、この空気感。
三人は言葉を交わさない。
背広の二人は、ただ前方を見据え、時折周囲を鋭い目つきで確認している。
その視線は、一般の乗客が持つものとは明らかに違っていた。
離陸のアナウンスが流れ、機体がゆっくりと滑走路へ向かう。
エンジン音が高まり、機体が前へ押し出されるように加速する。
雅一はシートに背中を預け、上昇する感覚に身を任せた。
だが、前の三人の存在が気になって仕方がない。
背広の二人は、離陸中もほとんど瞬きせず、窓際の男の様子を時折確認している。
窓際の男は、上着を膝に置いたまま、じっと前を見ていた。
離陸して三十分ほど経った頃だった。窓際の男が、低い声で何かを呟いた。雅一には聞こえない。だが、背広の二人はすぐに反応し、軽くうなずいた。
そして三人は立ち上がり、後方のトイレへ向かった。
その瞬間、雅一の目に、窓際の男の両腕がちらりと映った。銀色の光。手錠だった。
「……え?」
思わず息を呑んだ。上着の下に隠されていた手錠が、歩く拍子に少しだけ露出したのだ。
心臓が一瞬止まったような感覚。背中に冷たい汗が流れる。
——護送されている?
——北海道に?
——この男、何をしたんだ?
背広の二人は刑事なのか。道警か、それとも警視庁か。雅一の頭の中で、様々な想像が渦を巻いた。
三人は十分ほどで戻ってきた。
再び無言で席に座り、窓際の男は上着を膝に掛け直した。
その仕草はどこかぎこちなく、手錠の存在を隠すことに慣れていないようにも見えた。
雅一は眠るどころではなかった。
心臓の鼓動が速くなり、耳の奥で自分の呼吸音が大きく響く。
機内の空気は変わらず穏やかなはずなのに、前席の三人の周囲だけが異様に静まり返っているように感じられた。
——この男は、どんな罪を犯したんだろう。
その疑問は、旅の始まりにしてはあまりにも重く、雅一の心に暗い影を落としていた。
彼は、ただ前の座席を見つめながら、北海道へ向かう機体の中で、知らず知らずのうちに息を潜めていた。
