乱世が生み、安定が奪うもの──三国志後半の空白
最近、宮城谷昌光の『三国志』全12巻を読み終えました。
外伝にあたる名臣列伝4冊と『諸葛亮』上下巻も続けて読んだので、合計18冊に及ぶ長い読書になりました。
読み切るだけでも大変でしたが、長期連載を続けた著者の労力は想像をはるかに超えるものだったのだろうと思います。
調べてみると、本編12巻は文藝春秋で2001年から2013年まで連載されていたそうで、大変な労作です。
三国志は2世紀後半からおよそ100年にわたる群雄割拠の世の中で、多くの英雄や豪傑、智謀の士が登場し活躍する物語です。
しかし、天才軍師として有名な諸葛亮が陣没するまでは面白く感じられるのですが、その後の展開はそれほど魅力的ではないように思われます。
それは物語の後半になると、登場人物の魅力が全体的に乏しくなり、三国いずれの国でも人材が枯渇していくからです。
三国に収斂し、それまでの群雄割拠の時代に比べ安定的な世になったにもかかわらず、かえって優れた人材が表舞台から姿を消してしまうという矛盾。
乱世のように明日をも知れない時代の方が、多くの人材が生き生きと活躍していたのは皮肉と言えるでしょう。
本来どの時代にも人材は存在しているものですが、社会的な要因によって彼らが能力を発揮する機会が失われてしまったのかもしれません。
こうした現象は、まさに社会の損失と言えるのではないでしょうか。
百年に及ぶ戦乱の末に統一国家が築かれますが、その平和は長く続かず、再び乱世の時代へと突入します。
安定した社会が徐々に築かれていったはずなのに人々の可能性が閉ざされ、あっという間に戦乱の時代に逆戻りしたように私には見えてしまいます。
こうして振り返ると、三国志という物語は、もしかするとディストピア的な世界を描いた作品なのかもしれません。
