見出し画像

『たとえば、ぼくらがいたなら』という歌について

この歌は、何かを断定するために制作したものではない。
そして「真実はこうである」と主張するための歌でもない。

むしろ、
これまで言葉にすることのできなかった“空気”のようなものを、
ひとつの作品として残しておきたいという思いから生まれた。


たまたま聴いた森田童子さんの『たとえばぼくが死んだら』。

当時のフォークソングや、
深夜ラジオ、
自主映画、
アングラ演劇。

昭和という時代の地下に流れていた、
「言葉では表現しきれない孤独」の空気。

それは現代には、
すでにあまり残されていない感覚なのかもしれない。


現代のSNSでは、得られない感覚と空気感。

今の時代は、直ぐに答えを求めたがる。
白か黒か。
敵か味方か。
証拠は存在するのか。

けれど本来、
人間が抱く違和感や不安というものは、
もっと曖昧で、
もっと言葉にならないものなのではないのか。

だからこそ、現代の空気の記録として残した。


近年の皇室報道や、
秋篠宮家をめぐる空気に触れるたび、
私は時折、
昭和特有の“湿った不安”に通じるものを感じることがある。

写真に漂う違和感。
管理されたような空気。
「語ってはならない」という沈黙。

そして、どこか「役割」として
何も感じずに、振る舞っているように見える姿。

もちろん、何が真実であるかは分からない。

ただ、もし本当に、
「自分自身としてではなく、役として生きる」
しかない人生なのだとしたら、
その人はどのような思いを抱えているのだろうか。

今でも全面的に信じているわけではない。
いや、こんなことがあるはずがない、
人間として、こんなことができるはずがない、
という感覚の方が近い。

そのようなことをいつも考えてしまう。

だからこの歌は、
「名前の中で生きる孤独」を
描いた歌になったと思う。


制度が人間を呑み込むとき、
そこでは命も、孤独も、沈黙も、
都合よく処理されてしまう。

私が怖いのは、まさにそこだ。

皇室の問題も、
憲法の問題も、
戦争へ向かう空気も、
根は別々ではない。

国家や制度の都合が、
人間の痛みを置き去りにして進んでいく。

だからこそ、こちら側まで
人間らしさを失ってはいけないと思っている。


この曲には、暗号のような言葉をちりばめた。

長い廊下。
遠くから響く靴音。
同じ名前。
菜の花。
夜空。

2026年という時代の空気を残すのであれば、
それで十分だろう。


この曲は、YouTubeのアルゴリズには決して乗らない。
だから、大きく広がる作品でもないし、いずれ埋もれていく。

それでも、私は残しておきたかった。
確かにこのような空気が存在していたことを。

モノクロの夜景のような、
静かな不安が、
町のどこかに漂っていたことを。

そして、
その空気の中で、
「ぼくは ぼくだ」と、
小さく口にしてみたかった誰かが、
いたのかもしれないということを。


断定したい人たちから見れば、
甘いと言われるかもしれない。

けれど、もちろん分かっている。
今は、何が起きても不思議ではない時代だ。

だからこそ私は、この歌を残しておきたかった。


(かわら版屋もぐぞう)


いいなと思ったら応援しよう!