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【提言】忠誠心を育ててみてはどうか

アメリカで働いていたとき、たまたま縁があって正規の連邦政府職員 (FTE: Full-Time Equivalent) として某省に勤務していた。

採用日、私は実際の勤務地から少し離れた建物に一人で出向き、担当者の待つ小さなオフィスに入室した。

そして、担当者の指示に従い、オフィスの一角に掲げられた星条旗に向かい、「Oath of Office(就任の宣誓)」を行った。

日本では「Oath of Office」は合衆国大統領が就任する際、寒空の下でやるもの、という程度の印象かもしれない。

実際には、全ての連邦政府職員が行う儀式であるため、私のような連邦政府の末端職員であっても例外なく宣誓をする必要があった。

宣誓の内容はシンプルだ。

『合衆国憲法を支持し、国内外のあらゆる敵から(当然日本が敵であっても)、合衆国憲法を守り抜くことを誓います。私はこの義務を自発的に引き受け、己の職務を真っ当に遂行します』 ── そういった言葉を、声に出して唱える。

結びの「アーメン(正確にはエイメン)」は担当者に強制はされなかったが、初めての経験に浮ついていた私は謹んで「アーメン」を星条旗の前で唱えた。

「アーメン」と言うことで、私の真摯な態度を担当者に見せつけたかっただけかもしれない。

それはさておき、日本で働いてきた感覚からすると、「誓う」という行為自体がやけに大げさに感じられた。

日本の会社に入社する際、私たちは雇用契約書にサインはするが、声に出して何かを誓うことはない(ブラック企業は知らないが)。

せいぜい「よろしくお願いします」と頭を下げる程度だ。

しかし、あの宣誓を終えたあと、不思議な感覚が残った。

自分がこれから担う仕事が、単なる「業務」や「作業」ではなく、何か大きなものに対する「責務」であるという実感だ。

給料をもらうために働くのではなく、自分が仕えるべき対象 ── この場合は憲法であり、国家そのもの ── に対して、忠誠を尽くすという意識が芽生えた。

そして、私が連邦政府職員であるうちは、仮に日米間で戦争が起こった際には米国の為に働く覚悟をしていた。

これは制度の力だと思う。

言葉にして誓わせる、という儀式そのものが、人の心に錨を下ろす。

忠誠心とは、放っておいて自然に湧いてくるものではない。

誓いという形式を通して、初めて自覚され、育っていくものだと、あの時否が応でも気付かされた。

日本に足りないもの

一方、日本はどうだろうか。

日本人は「和を以て貴しとなす」と言えば聞こえはいいが、要するに「空気を読む」や「右へ倣え」という言葉を重んじている。

しかし、空気を読んで周囲に合わせることと、何かに対して誇りを持って忠誠を誓うことは、まったく別の行為だ。

日本人は日々、何のために、誰に対して働いているのかを、言葉にして確認する機会をほとんど持たないのではないか。

その結果、ただ「なんとなく」眼前の業務をこなし、「なんとなく」暮らしている。

そんな気がしてならない。

忠誠心は誰かへの服従ではない

誤解してほしくないのは、忠誠心とは盲目的な服従ではないということだ。

私が誓った宣誓の対象は、特定の政権や個人(例えば、合衆国大統領)ではなく、憲法という「原則」だった。

むしろ忠誠を誓う対象がはっきりしているからこそ、目の前の権力者の言うことに盲従する必要がなくなる。

誓いの対象があるということは、判断の基準を持つということでもある。

日本に必要なのは、誰かに従順に従うことではなく、自分が何に対して忠誠を尽くすのかを、一人ひとりが自覚し、言葉にする機会だと思う。

それは国家かもしれないし、地域社会かもしれないし、職業倫理かもしれない。

対象は人それぞれでいい。

大切なのは、その対象を持たないまま漂流することの危うさに、私たちがそろそろ気づくべきだということだ。


あの日、星条旗の前で右手をぎこちなく挙げながら感じた小さな誇りと責任感を、私は今も覚えている。

日本にも、そういう「誓いの瞬間」があってもいいのではないだろうか。

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