恥と合理性
忘れることのできない写真があります。それは大戦前のドイツでユダヤ人がひざまずいて通りを歯ブラシで磨かせられているという写真です。
その人物がある宗教に属しているというだけで、その人物の人格や法的な立場とは関係なく差別するというのは、人として恥ずべき行為ですが、僕たちは自分の立場が危うくなるとそれを「恥」だと言ってられなくなります。
僕は信条や宗教の違いによって、他者をひざまずかせて通りを磨かせたくはありません。それは僕が博愛主義者やヒューマニストだからでは決してなく、そういったことが合理的ではないという共通理解を作っておかないと、いつ自分がひざまずいて通りを磨くことになるか分からないからです。
僕たちは、状況が変化すれば、いつでも少数派にカテゴライズされる可能性の中で生きています。だから、常に「想像力」を巡らせて、少数派の人たちのことを考慮しなくてはなりません。繰り返しますが、それはヒューマニズムではありません。自分たち自身を救う合理性なのです。
