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映画での実験 ~つぎの映画を撮るまでに (16)

今週「考えたこと」も、映画の実験性についてです。先週に引き続き、実験について書き記します。先週は実験とはなにかという、根源的な意味や、その概念性について詳らかにしました。しかし肝心なところは、私の制作中の映画についてはどこが実験的なのか、というところですよね。

今回の記事は、私の制作中の映画について、私がどの部分を実験とみなしているのか、記録しておきます。



実験的技法

私としての実験(挑戦)と、映画芸術としての実験(前衛)がありますので、恐れ多いですがそれぞれ説明していきます。

①    個人的挑戦

前作で私が実践しなかったことの一つに、カメラに動きを与えることがあります。超初歩的なことかもしれませんが、私のなかでは重要事項です。

企画、脚本、ロケハン、人集め、スケジューリングと詰めて、現場では私が映像と音声を一人で実行するわけですから、カメラはすべて定点にしました。やりたいができないことは殆ど排除して、完成を優先したのが前回です。ですから、今回は前回経験をもとに、撮影に注力して、パン&ティルトをなるべく入れてみることにしました。

また、今回はモノクロ・カラー以外に、赤ライトのみで1シーンの絵作りをしてみようと考えています。ある海外ドラマのスーパーヒーローモノの一部シーンをパクろうとしているわけですが、あんまり観た記憶がないので、新鮮かなと考えている次第です。余談ですが、海外ドラマの絵作りは、予算があり中々実験的ですよね。

②    前衛実験

ちょっとしたことですが、今回特別に考えている実験としては、ウォン・カーウァイ監督特有のコマ落としを少しだけ応用しようと思っています。

通常、商用電源周波数に合わせてフレームレートを設定するので、ミラーレスで関東での撮影するのであれば1/50にしておくわけですよね。コマ落としを撮りたければ、リミッター解除などして、1/10くらいにすれば印象的な映像になるかと思います。リスペクト、オマージュとして、今回はコマ落としを多めに使用してみました。

ただ、それだけだと面白くないので、トレールフィルターを活用しました。主人公のトラウマ的回想シーンで、コマ落とし&残像、という風な映像で少しだけ差別化しています。残像がくるくる回って、サイケデリックな演出に昇華できているのではないかと思います。

それから、AI映像ですね。ある記事では、AI映像への巨大資本の投資は終了しつつある、とされています。今が手を出す好機だと考えて、利用してみました。ことに、私は撮影における各専門家をクルーに迎えられていませんので、イメージを素早く映像表現するには最適でした。下記は一例ですが、細やかな表現はできないものの、出力の方向性は適切だと感じました。個人的には成功です。


実験的構成

さいごに、構成における実験性ですが、大きく二点挙げておきます。

①    モンタージュ

技法でもあるのですが、あまりにも意味を重視していますので、脚本構成と捉えて解説します。下記の防毒マスクの男と二枚目俳優(主人公)の映像ですが、本編の構成では、三つの場所をジャンプする会話シーンとなっています。

はじめは東京タワー付近の駐車場で二人が会話し、間をじっくりと映す欧州型モンタージュとしています。つぎに、モンタージュを排除した長回しのワンショットでつなぎます。最後に、紹介の映像ですが、ハリウッド型のテンポ良いモンタージュで締めくくります。が、同じシーンを別の形で二度繰り返す不思議なモンタージュとしてみました。さて、鑑賞者は何を思うのか…。

②    即興の会話劇

映画の最後には、私と主人公が会話しますが、即興の対話にしました。まさにドキュメンタリーですね。二人で今作のテーマである、宇宙について、双方の理解を照らし合わせています。台本がない状況でなにが生まれるのか、好奇心が湧いたので実験してみました。


北野武監督が、中田敦彦のYouTube大学の中で、こんなことを語っていました。以下は私なりの要約です。

映画芸術というのは130年ばかりの、歴史の浅い総合芸術(テクノロジー)である。まだまだ可能性があり、独自性を築く余地がある。それだから、死ぬまで撮り続けるような魅力がある。

映画制作として、頭の中にあるものをすぐに形にできないもどかしさは、常にあり続けます。ただ、時間をかけて醸成させて、完成させる喜びは、代わるものがない喜びなんだと思います。

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