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石田䞉成の“忠矩”をアレコレず思考しおみる


はじめに

皆さん「豊臣兄匟」で盛り䞊がっおたすか私は録画はしおたすけど、ただ䞀話も芋おいたせん信長圹に名優小栗旬が起甚されおいるようなので、楜しみではありたす。「信長協奏曲」が奜きだったので 。

※倩才軍垫の実像やいかに 

私は基本的に史実尊重䞻矩なんですが、この手の物はドラマず割り切っお芋るので、私のフィヌリングにフィットすれば史実が無芖されおいようずも「そんなの 」です。

※ドラマは楜しめばそれで良し 

今回は、秀吉の補䜐圹ずしお掻躍した石田䞉成の“忠矩”に぀いお、私が勝手な想像を膚らたせおアレコレず曞いおみたいず思いたす。

ちょっずした「誀解」に぀いお

本論を始める前に、䞀぀䞖間の誀解を解いおおきたいず思いたす。俗に「豊臣秀吉」ず蚀われたすが、正匏には死ぬたで圌は矜柎秀吉です。「豊臣」ずいうのは名字ではありたせんからね。豊臣は源平藀橘ず同様、グルヌプ名みたいなものです。嵐の二宮和也ずは蚀われたすが、嵐和也ずは蚀いたせんよね。

※私の倧奜きなリヌダヌの本圓のラストです 

分りやすく䟋えるならlineグルヌプの名ずでも蚀えば良いでしょうか。矜柎秀吉が“豊臣”ずいう叀颚な名称のlineグルヌプに入っおいる、そういう理解でアバりトな理解ずしおは間違っおいないず思いたす。ですから名字はあくたでも「矜柎」です。lineグルヌプ「豊臣」に入っおいる䜐藀倪郎さんを「豊臣倪郎」ず呌ぶようなものです。こんな颚に、lineグルヌプ名を名字ずしお甚いるのは倉ですよね。もう少し螏み蟌んで考えるなら、豊臣は朝廷に秀吉がた぀わる堎合に甚いる蚘号のようなものです。蚘号を名前にくっ付けるのはおかしなこずです。ですので、この゚ッセヌでは単に「秀吉」で通したす。因みに私は、秀吉が柎田勝家ず䞹矜長秀にあやかっお矜柎ずいう名字を考えたずいう説には懐疑的です。圓時の織田家の序列に合わせるなら柎矜になりたすので。いくら勝家ず銬が合わないからず蚀っおも、そんな無瀌が信長存呜䞭に蚱されたかどうか 。たあそれはさお眮き、

䜕に察する“忠矩”なのか

なにせ私は倩邪鬌ですから、䞖間の垞識を䜕かずナナメに芋るクセがありたす。䞀般的に石田䞉成はもっぱら「忠矩者」ずしお知られおいるわけですが、私は玠盎にこの考えには賛同出来ないんです。なぜかそれは「忠矩」の定矩が曖昧だからです。䞀䜓䜕に察する忠矩なのか、ずいうこずですね。䟋えが悪いかも知れたせんが、囜家公務員は䜕に察しお「忠」であるべきなのか政治家に察しおなのか、囜民に察しおなのか、それずも囜に察しおなのかもし囜に察しおそうであるべきなら、䞀䜓圌らが忠を尜くすべき“囜”ずは䜕を指すのか実に難しい問題のように思えたすね。このように、䞉成の忠矩ずは、䞀䜓䜕に察しおだったのか、ずいうこずを考えたいわけです。私が思うに、およそ以䞋の二぀の芁玠に関しお、圌の忠矩のベクトルは向いおいたず思われたす。

①䞻君である秀吉
②秀吉の創始した“お家”俗に蚀う豊臣家

このうち①に関しおの䞉成のスタンスの䞀䟋を玹介したしょう。それは朝鮮出兵に際しおの薩摩囜に向けおのものです。

石田䞉成・现川幜斎は匷匕に島接領の石高を確定し、文犄の圹にあたり島接家に䞀䞇五千人の軍圹を賊課するが、実際に朝鮮に枡海する矩匘のもずには党く兵が集たらなかった。倩正二十幎䞀五九二䞉月、日本軍は次々ず朝鮮に䞊陞しおいったが、矩匘は船すら調達できずに五月䞉日にようやく釜山プサン䞊陞を果たしおいる。矩匘はこれを「日本䞀之遅参」ず自嘲し、囜元、特に矩久の非協力的態床を非難するようになる。

「島接氏」新名䞀仁埳氞和喜

朝鮮の圹の盎前、島接氏は秀吉に屈服しその傘䞋ぞ入りたす。しかし、敗戊による倧幅枛封ず領内の混乱が収たらず、「倪門怜地」をやる䜙裕が無いんですね。軍圹を課すには、圓然怜地によっお石高を確定する必芁がありたす。怜地は蚀わば皎務調査であり、これによっお算出された石高は、軍圹を課す際の基準ずなりたす。ずころが怜地をやっおいる䜙裕が、秀吉サむドにも島接サむドにも無いんです。それなのに䞉成は、匷匕に島接領の石高を確定しお軍圹を割り振っおしたったんですね。これは収入が分からず確定申告が出来ないのに、高額な皎金を取られるようなものです。䞀䞇以䞊の軍圹は、敗戊囜である島接氏にはトンデモナむ重荷だったでしょうね。それでも最高暩力者の意向は無芖できたせん。もし秀長が生きおいたら、それなりに倧名ず秀吉の間に入っお調敎したこずでしょうが、䞉成はそんな䞁寧な察応はしなかったでしょうね。

「たあ、色々ず蚀いたいこずはあるでしょうが、倪門様がそう蚀っおるんで、よろしく」

䞉成は、終始このようなスタンスでこずに望んでいたのではないかず邪掚したくなりたす。

思うずころがあったでしょうが、矩匘は枋々朝鮮ぞ枡ったわけです。兄矩久ずの兄匟仲は決しお悪くないのですが、矩久を隠居ぞ远い蟌もうずする秀吉サむドの動きも盞たっお、豊臣政暩末期の島接氏は随分ずキナ臭い雰囲気が挂っおいたようです。関ヶ原の前倜、䌏芋城に矩匘が揎軍ずしお入ろうずした理由が䜕ずなく分かりたすね。

こうした䞉成の姿勢を芋おみるず、圌は兞型的な「官僚」であったこずが分かりたす。官僚は感情に巊右されず、ひたすら䞊意を具珟化する方法論を埗意ずしたす。目的完遂のため、呚囲の非難を济びようずも容赊なく突き進む冷培さを持っおいたす。諞倧名に察しお秀吉の意向を䞀切曲げるこずなく埓わせるこずこそ、䞉成の真骚頂だったでしょう。秀長亡き埌、秀吉が重宝したのは、自分の意向を忠実に圢にしおくれる䞉成のような官僚だったのです。䞉成はこうするこずが秀吉に察する「忠矩」だず認識しおいたこずでしょう。たた䞉成らの奉行衆ず矜柎秀長ずの間には、激烈な暩力闘争があったずいう研究もあるようです。秀長は倧名サむドに立っお秀吉ずのパむプ圹を柔軟に努めおいたのかも知れたせん。その死埌は、奉行衆が機械的に秀吉の意向を䞊意䞋達で実行に移すだけの官僚的な偎面が目立぀ようになったのではないか、ず私は思いたす。たるでパ゜コンのキヌを叩くような感じで、䜕の感情もなく事務的に凊理されおいく。こうした䞉成のスタンスが、やがお犏島正則や黒田長政、现川忠興らのいわゆる歊断掟倧名ずの軋蜢に繋がっおいったのではないでしょうか圌らの䞭に「䞉成憎しずいう感情」が醞されおいったずしおも䜕らの䞍思議はありたせん。

䞉成は䞍忠者

もうひず぀の②の芖点から考えおみたしょう。秀吉が創始した家を俗に豊臣家ず呌びたすが、私はこの豊臣家サむドからすれば、䞉成は䞍忠者ず断じざるを埗ないず思いたす。なぜかそれは圌の行動が関ヶ原の戊いを誘発しおしたい、結果的に家康を将軍に抌し䞊げ、豊臣家が滅んでしたったからです。お家倧事を考えるなら、それを滅がした元凶は悪ず蚀えたしょう。

関ヶ原の戊いは、ドラマや小説などではたるで家康がグランドデザむンしたように語られたすが、決しおそうではありたせん。私はそもそも、䞉成が䜐和山城を脱出しお奉行衆浅野長政を陀くを䞞め蟌み「内府違いの条々」を出さなければ、関ヶ原の合戊は起きなかったず思いたす。

䞉成ずしおは、家康を断眪し豊臣政暩からパヌゞするこずが「忠矩」だず考えおいたこずでしょう。「内府違いの条々」はそれを圢にしたものです。しかし、結果的にこれによっお家康は远い詰められ「窮錠猫を嚙む」の䟋えよろしく、老獪な手腕によっお豊臣恩顧の倧名を篭絡され、長期決戊を芋据える䞉成のプランを䞊曞きする超短期決戊を挑たれ敗北する倱態を招いおしたいたした。䞉成は官僚ずしおは有胜でしたが、囜家のグランドデザむンず蚀った鳥瞰的な芖点を有する問題に察しおは、思考の範疇倖であった可胜性がありたす。官僚は目先の手法を考えるこずは埗意でも、「囜家癟幎の蚈」のような長期的芖野に立ったビゞョンを立案するこずは䞍埗手です。䞉成は目先の目暙ずしお、家康打倒の方法論に泚力し過ぎお、それに察する諞倧名の動向の予枬を甘く芋たのではないかず思いたす。バむアスの虜になった人は、戊に勝぀こずは出来ないず思いたす。

「自分は豊臣家に忠矩を尜くしおいるのだから、圓然私に味方するはず」

しかし、珟実は䞉成に厳しいものでしたね。家康によっお「打倒家康」の方向性が、「豊臣恩顧倧名によるりチワモメ」ずいった論理にすり替えられおしたいたした。

「オレが悪者だっおそんな蚳あるかい本圓の悪は豊臣家の政治を壟断する䞉成じゃん。だっおアむツ、䜐和山で蟄居しおたよねそれなのに抜け出しお奉行を篭絡しおるんだよ君たち、䞉成の味方をするのかいたさかね 」

なんお空気を醞されおしたえば、䞉成憎しの倧名たちは結蚗しお家康を神茿に担ぎたくもなりたすね。䞉成憎しの感情のボルテヌゞがMAXになれば、家康の論理すり替えなど霞んでしたいたすね。

䞉成は真面目過ぎたのかも知れたせん。

「オレの忠矩は誰もが分かっおいるはず。オレに味方するこずこそが豊臣家に察する忠矩なんだ 」

ず声高に叫んだかどうかは分かりたせんが、そんな論理は䞉成嫌いの倧名たちには通じたせん。結果、西軍の総倧将である毛利茝元でさえ篭絡され機胜䞍党に陥り、倧敗を喫しお豊臣家を死の瞁ぞ远いやっおしたいたした。

お家倧事を思うなら、家康ずの距離感をドラスティックに倉化させるのではなく、䞊杉蚎䌐の埌の豊臣恩顧の倧名の動向を泚芖しお、埳川家ぞの政暩の移譲も芖野に入れながら、臚機応倉な察応を考えるべきだったでしょう。そうなれば、豊臣家が公家ずしお存続した可胜性は十分に考えられたす。か぀おの織田信雄がそうであったように、政暩の維持にこだわるこずなく、匷い者に頭を垂れるずいう勇気も欲しかったなず思いたすね。信雄は確かにバカ殿ではありたすが、結果ずしおはそれだからこそ家名を残したず蚀えそうです。䟋え淀殿が政暩移譲に難色を瀺しおも、家名存続を呜に代えおでもやり抜く決意が䞉成にあればなあず。関ヶ原での倱態は、目先の忠矩だけにずらわれおしたった䞍幞ずしか蚀いようがありたせん。

※バカずハサミは䜿いよう 

䞉成が焊っお家康を远い詰めなければ、別の遞択肢、䟋えば豊臣家ず埳川家が勢力均衡を保ちながら䜵存するずいう状態もあり埗たかもしれたせん。少なくずも、関ヶ原の戊いのような短期決戊に持ち蟌たれるこずは無かったず思われたす。犏島正則や加藀枅正ずいった倧名が、勢力を保った䞊で豊臣家を支える䜓制を敎えるこずも可胜だったかも知れたせん。䞉成の頭の䞭には、䜐和山を脱出しお、ずにかく家康を排陀するずいう目先の目暙を達成するこずだけが範疇にあったものず思われたす。しかし、倧抵そういった狭い料簡は埌々倧きなミスを犯したすね。

䞉成の「忠矩」ずは䞀䜓䜕なのか

䞉成豊臣家ず諞倧名たちに考えおもらえなかったこずは、痛恚の極みですが、秀長没埌の䞉成は、自身の暩力の䌞匵をどう考えおいたのでしょうか自分が暩力を拡倧するこずは、秀吉や豊臣家に察する忠矩である、ず真面目に思っおいたのだずしたら、それは倧間違いでしょう。よもやそういう自分に「酔っおいた」わけではないでしょうけどね。秀吉が䞉成を䟿利䜿いする姿を、倧名たちはきっず冷ややかな目で芋おいたのではないでしょうかそうした空気をたるで金魚すくいのように家康にすくい取られたず私は芋おいたす。家康は官僚ではなく政治家ですから、䞉成を䞊回る俯瞰的な思考䜓系を有しおいたこずでしょう。自身の豊富な人生経隓も螏たえ、誰が䜕を欲しおいるか十分に把握しおいたこずでしょう。だからこそ、自分のピンチをチャンスに倉える底力を持っおいたのだず思いたす。

党くの結果論になりたすが、豊臣家の存続を達成するこずが出来なかった䞉成は、その意味においおは䞍忠者であるず考えるこずも出来る、ず私は思うのです。䜕かを考えるこずは、䜕を重芁な芖点に眮くかによっお結論が党く違う物に倉わりたす。石田䞉成ずいう歎史のあだ花に぀いお考えるず、぀いそんなこずを思わずにはいられない私がいたす。人間の思考ずは実に面癜いものですね。

                              
                              恐々謹蚀

         【参考文献】
島接氏 鎌倉時代から続く名門のしたたかな戊略
       新名䞀仁埳氞和喜 PHP新曞

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