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掌編小説『潮風』

埠頭で夜景を見ていた。

昼間は無機質に見える倉庫やクレーンも、夜になると別の顔を見せる。対岸に並ぶビルの窓明かりは宝石をばら撒いたように輝き、赤や青や白の光が水面に溶けていた。

色とりどりのグラデーションがぼんやり対岸に映り、海面ではさらに色味をぼかした。

波は穏やかで、光を抱きしめるように揺れている。風が吹くたび、水面の絵具は指でなぞられたように形を変えた。

私の心みたいだと思えた。

好きという感情はもっと単純なものだと思っていた。嬉しいとか、会いたいとか、そんな分かりやすいものだと。

けれど実際は違う。

期待と不安。
安心と緊張。
近づきたい気持ちと、このまま壊したくない気持ち。

様々な感情が混ざり合い、輪郭を失っている。

まるで海面に映る夜景のように。

夜風が心地良かった。

潮の香りを含んだ湿った空気が頬を撫でる。遠くでは船のエンジン音が低く響き、どこかで金属が軋む音が聞こえた。

湿った空気の中、私の心は乾いていた。

誰かに満たしてほしいわけではない。

それでも彼と離れている時間だけは、自分の中に小さな空洞ができてしまう。

一人でも生きていける。

そんなことは分かっている。

けれど彼がいる日常を知ってしまった今、一人でいる時間は以前より少しだけ色褪せて見えた。

隣を見る。

彼もまた夜景を眺めていた。

風に前髪が揺れ、横顔だけが街灯に照らされている。

その表情が何を考えているのかは分からない。

分からないからこそ知りたかった。

もっと近づきたかった。

もっと彼のことを知りたかった。

夜景を見ながらそんなことを考えていた。

彼は囁くように呟いた。

「ずっとこうしていたいんだす」

夜風に溶けそうなほど小さな声だった。

それでも私の耳には驚くほど鮮明に届いた。

胸の奥で何かが弾ける。

鼓動が急に大きくなり、自分の心臓の音だけが聞こえる気がした。

言葉を返したいのに、頭の中が真っ白になる。

嬉しい。

その一言だけでは足りない。

幸せ。

それでも足りない。

言葉という器では、この感情を受け止めきれなかった。


「ほえー。ほえー」

私は言葉にならない喜びを発した。

情けない返事だと思う。

もっと気の利いた言葉だってあったはずだ。

けれどその時の私は、胸いっぱいに広がる幸福感に飲み込まれていた。

彼が笑う。

その笑顔を見た瞬間、夜景の光も、海面の揺らぎも、潮風の匂いも、すべてが少しだけ特別なものになった気がした。

私はそっと夜空を見上げる。

恋とはきっと、世界の色を少しだけ変えてしまうものなのだと思ったんだよーん。

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