【 小さな宿 】 33章 二人の旅 小さな偶然が重なる場所
8月11日。
お盆の少し前、私は例年のように宿の予約状況を確認していた。
普段なら、この時期は近隣に実家がある帰省客で早々に埋まる。しかし、今年は事情が少し違っていた。1階と2階、それぞれの部屋に、3月と5月の段階で予約が入っている。しかも二人とも日本人で、滞在日程まですっかり同じだった。予約を受けたときは、何の違和感もなかった。「ああ、帰省だろう」と思った程度だ。
昼下がりのことだった。
島根から来た女性客、Mさんが静かに改札の向こうに現れた。特急列車と在来線を乗り継いで到着した。
彼女はスクールカウンセラーという、聞きなれない肩書を持つ。
「どうして島根からこんなとこまで?観光ですか?または、小学校とかに教えに?」
道すがら話をしていたら、明日から5日間、朝から晩まで、ここから1時間かかる福祉大学で講習があるのだという。
彼女は大きくも小さくもないスーツケースを引きずりながら、慣れない土地の空気をそっと確かめるようにしていた。
チェックインの手続きをすませながら、彼女はぽつりぽつりと話してくれた。
大学周辺には本当に宿泊施設がないこと、そして参加者の多くは大阪市内の賑やかな場所から通うことになるだろうこと。
「ここから通えるんですかね、あの距離。近いようですが、電車、けっこう乗り継ぎますよね」
Mさんは控えめに笑った。その笑顔は、これから向かう見知らぬ講習への緊張を、少しでも和らげようとしているように見えた。
私は知りうる限りの情報を伝え、朝は少し早めに出たほうがいいかもしれません、と付け加えた。
彼女はうなずき、「そうします」と言って階段をのぼっていった。
人は、旅の理由や経路を語るとき、無意識に自分をさらけ出す。その姿を見ていると、私もまた、普段は思索の奥底に置いている日常の小さな不安や、過去の記憶が自然と呼び覚まされるのを感じる。
こうした観察の時間は、私にとって静かな瞑想のようなものだ。こうした旅人たちの物語は、父の49日を迎えようとする私の、癒えない心を、ゆっくりと紛らわせながら包み込む。
一人客だと、旅の話をする傾向はより顕著だ。
宿の8割から9割は外国人、または外国に住む日本人で、彼らが2人、3人で来る場合は、皆一斉に話し始める。
アメリカ人の大学生3人、タイ人男女4人が来たときなどは、スラングが飛び交い、質問も数多く投げかけられる。私は耳を彼らの声に、目を唇に、口を脳細胞に全集中させ、言語解析に神経を向けた。
人間の思考や文化の差異を、瞬間瞬間で受け止める作業は、私にとって微妙な興奮を伴う。
4時間ほど後、一階の広島から来る男性客、Kさんを迎えるために再び宿へ向かった。日本人男性で特別な要望もなかったため、駅ではなく、直接、宿で待ち合わせにしていた。
Kさんは、私が大学時代を過ごした小さな町に住んでいる。
到着したら大学時代のことやあの小さな町の話をしよう――そう思いながら、私は宿の一階で、リネンの準備しながらしばらく過ごした。
待ち合わせ時間になり、私は待つために、蒸し暑い外に出た。
玄関に向かって立つ人物が彼であるとすぐに分かった。
Kさんは、大きく息を吐き、かなり疲れた印象だったからだ。
話を聞くと、車で5時間かけてここまで来たという。
彼が目指す目的地までは、電車ではアクセスが悪く、移動時間も長いため、車で来るという合理的な選択をしたらしい。
ひと通り、広島について話をしながら、手続きを済ませて、さらに話を聞いた。
「どうして広島からこんなとこまで? 観光ですか? それともお仕事?」
「実は……明日から5日間、福祉大学の講習に参加するんです」
私は一瞬、言葉を失った。聞けばMさんと同じ講習に参加するというのだ。
「え、二階のゲストと同じとこですか?」
Kさんは少し困惑した様子で目を見開いた。
私は大学名や場所について、そして目的について、もう少し伝えた。
「え、そうなんです……偶然ですね」
「はい、本当に偶然です」
彼もまた、福祉従事者だった。
私は一瞬、心の中で考えた——車では来てはいない、二階のMさんを大学まで一緒に送ってあげたらどうか、と。
私ならそうしてあげるし、彼ならそうしてあげるのでは、そう感じたから。
しかし、すぐにその考えを打ち消した。
踏み込むべきではない。
偶然の偶然のまま、二人が驚き、戸惑い、そして自然に出会う——その方が、より美しい。
そう思ったから。
「大学までの道は少し不便ですが、気をつけて行ってくださいね」
「ありがとうございます!」
彼らが大学で顔を合わせ、宿泊先について話が盛り上がったら……どんな反応になるんだろうか。
そしてまた、宿の近くのコンビニやスーパーで出会ったとしたら。
そんな小さな未来をぼんやりと想像しながら、私は静かに微笑みながら、帰路についた。
二人が既婚者かどうかまでは知らない。
ましてや恋人の存在も。
決して、淡い恋の始まりを期待しているわけでもない。
ただ、宿に集った二つの線が、同じ日、同じ時刻、同じ目的で交差したという事実だけで、胸の奥に微かな振動が伝わる。
お盆のハイシーズン、本来なら帰省客で埋まるはずの部屋が、今年は福祉大学の講習参加者によって満たされた。
こうした人々のひそやかな営みは、父の49日を控えた私の、まだざわつく心を、ゆっくりと紛らわせながら包み込む。
二階のMさんと一階のKさん、二人の顔と来訪の目的を知る者は、この世界で私一人だけだ。
正直に言えば、私は小さな独占欲を得られるこの仕事が、わりと好きだ。
宿の雑務の先に待つ、独占という小さな勲章。
そして、その勲章がまたひとつ、静かに胸の中に加えられた。
人々の旅の軌跡や偶然の交差を間近で見守り、誰よりも早く知る——そんな役割が、私にとっての密やかな喜びとなる。
遠くから来て、見知らぬ土地で時間を過ごす人々の軌跡は、胸の奥に小さな光を灯す——それだけで、私の心は、少し静まる。
小さな奇跡って、こういうことを言うのかもしれないな。今頃、大学での講習も終わり、会場で偶然会った二人は、一緒に帰ってくるのかな。
いや、互いにずっと知らないままなのかもしれない。
彼らはそれぞれの居場所に帰って行った。
私は手早く、部屋の掃除を済ませる。
車窓の向こうに過ぎる宿を横目に、今日もスタジオへ向かう。
遠方から来るインストラクター、NさんのFLOWだ。
彼女のレッスンはかなり疲れる。
思わず気合いが入る。
とても暑い日曜日のこと。
