作家デビューを目指して5日目の夜。著名な作家さんであっても作家専業では食べていくのは経済的に難しいことを知る。

作家とは、これほど儲からないものなのか!!?

ヒョ〜エ〜(衝撃である)。
これでは、新卒のサラリーマンの年収のほうが高いだろうよ……。
それでもなぜ、人は作家を目指すのだろうか。
本が好きだからかな。
取次事業が赤字であるとの記事も出ていたが、今後も事業を続けて頂きたい。そのために少しでも私が出来ることがあるとすれば、紙の書籍を購入することぐらいなのか?
作家は、一人で執筆をする孤独な作業であるというイメージがあるかもしれないが、私は一人で書くことを好ましいとは思わない。執筆の動機は孤独である自分が他者の存在を感じ、他者と関わりたいからだ。存在を感じ、関わる相手は読者だけでなく、執筆をするまでの間に出会う人々がいたら良い。書籍に関わる人たちが大勢いたら嬉しい。

さて、2日目のブログに、我が出ると「書きたいもの」が消えていく感覚があるという長谷川町子さんによるお話と、少し同じようなことをボルヘス氏が書いていたように記憶していたことに言及していたが、該当箇所を見つけた。

私は作品を書くとき、読者のことは考えません(読者は架空の存在だからです)。また、私自身のことも考えません(恐らく、私もまた架空の存在であるのでしょう)。私が考えるのは何を伝えようとしているかであり、それを損なわないように最善を尽くすわけです。

J.L.ボルヘス/著 鼓  直/翻訳『詩という仕事について』
p.166

何かを書いているとき、私はそれを理解しないように努めます。理性が作家の仕事に大いに関わりがあるとは思っていません。現代文学のいわば罪障の一つは、過剰な自意識であります。

上掲書 p.168

私は物を書くとき(もちろん、私を例にするのはフェアではないが、恐ろしい警告の働きぐらいはするでしょう)、自分のことはすべて忘れるように努めます。私の個人的な事情は忘れます。かつてそんなこともありましたが、「ラテンアメリカ作家」たろうとはしません。私はただ、夢とは何かを伝えようと努めます。そして仮にその夢が曖昧なものであっても(私の場合、おおむねそうです)、それを美化すること、あるいは理解することもいたしません。

上掲書 p.168〜169

ボルヘスの自己意識とはどうなっているんだろう?ボルヘスのように西洋人の方は、日本人よりも自我の輪郭がはっきりとしているのだろうという印象があったのだが、意外にも、ボルヘスも作品を書くときには我(が)が消えているようだ。

作家とは「私はこれを言いたい!伝えたい!」という我の強い主張があって、作品として発表しているのだろうと思ったが、長谷川町子氏やボルヘス氏による話によれば、そうではないらしい。

内面世界の重みを背負うのは、一人ではこれ以上は耐え難いから吐き出して誰かと一緒に分かち合ってもらいたい。それは書く者として邪な動機なのだろうか?

そして書く過程で、吐き出し中(出力中)に重苦しい問題には焦点を当てずに、何か良きものが自ずと発生するのを待ちたいと思っていた。そのような願いを持つのは、あまりに楽観的で、雑な試みなのだろうか?
空に向かって投げた小石が、誰か素敵な人にぶつかって、それがきっかけで恋人になってくれないかな、というぐらいのご都合主義で楽観的で、読者が思わず安易な展開に呆れてしまうような願いになってしまうのかな。
でも、たとえご都合主義と言われても、そう願うことは自由だよね?

ああ、しあわせになりたい。
しあわせは、みんながしあわせにならないと、叶わない。
一人だけしあわせになろうとしても、無理なんだよ。

かきつくる あとにひかりのかゞやけば くらきみちにも やみははるらん
(明恵上人が詠む)


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