【裏返しの血痕】 5
第5話:不吉な一致
間一髪、地面を転がった。
耳元をかすめたのは、重い金属が空気を圧する「ブォン」という唸りだ。
「待て! 話を聞け!」
叫びは、岩を噛む水の音に掻き消された。
男は止まらない。
だが、その動きは執拗な殺人鬼のそれというより、燃え盛る家の中で出口を探し回るパニック状態の病人そのものだった。
血走った目は私を凝視しているようでいて、その実、私の背後にある「何か」を恐れているように激しく泳いでいる。
私は立ち上がり、小屋の角を利用して大きく距離を取った。
男は追ってこない。
再び軒先に崩れ落ちると、震える手であの機械を頬に押し当て始めた。
「……ブーン…………ブーン…………」
その隙に、私は足元の死体へと視線を戻した。
恐怖で曇った目をこすり、遺体の損傷をなぞる。
――おかしい。
首元に突き刺さった鹿の角。
それは正面から突き刺されたものではなかった。
角の枝分かれした「叉(また)」の部分に、首の肉が強引に、後ろから引きずり込まれたような異様な形をしていた。
まるで、巨大な釣針が喉元を深々と捉えたかのような、残酷な「ひっかかり」だ。
さらに、私は決定的な矛盾に突き当たった。
生きている男が、機械を執拗に擦り付け、肉を削っているのは「左頬」だ。
だが、目の前に転がっている死体の顔面で、ぐちゃぐちゃに肉が削げ、深い傷を刻んでいるのは――「右頬」だった。
私は反射的に、男の傍らに置かれたバケツを見た。
泥水の中で、あの「片目のイワナ」が、苦しげにエラを動かしている。
その右目。
潰れたザクロのような傷跡。
脳裏に、3年前のあの夏、私の指先を滑っていった魚の感触が蘇る。
針を外し損ね、右目を潰してしまったあのイワナ。
泣く泣くリリースした、あの時の傷と全く同じ位置、同じ深さ。
だが、バケツの中の魚の傷口からは、たった今、針を立てたばかりのような鮮血が糸を引いて流れ出していた。
3年前の記憶が、今、目の前で生々しく出血している。
「カチッ」
鼓膜の奥で、あの硬質な音が響いた。
視界が不自然に二重に重なり、陽炎のように揺れる。
目の前の男の姿が、一瞬だけ透けた。
その向こう側、今は晴れ渡っているはずの山の空に、3年前のあの日と同じ、どす黒い積乱雲が急速に沸き上がるのが見えた。
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