【裏返しの血痕】 6
第6話:3年前の傷痕
突如として、肌を刺す空気が氷点下まで引き絞られた。
つい先刻まで頭上にあったはずの午後の陽光は、泥をぶちまけたような暗雲に飲み込まれ、視界は急速に藍色へと沈んでいく。
――雨だ。
だが、それはただの雨ではなかった。
鼻を突くのは、強烈な土埃の匂いと、大気を焦がすようなオゾンの臭気。
それは、3年前のあの夏、私がこの谷で遭難しかけた凄まじいゲリラ豪雨の「匂い」そのものだった。
私は、足元のバケツに視線を叩きつけた。
泥水の中でのたうち回るイワナ。
その潰れた右目から、鮮紅色の血が糸を引いて舞っている。
脳裏に、3年前の光景が鮮明にフラッシュバックする。
岩陰に潜んでいた主(ぬし)を狙い、放った一投。
強引に引き抜いた際、ルアーのトレブルフックが深くその眼球を捉えた。
針を外そうと、もがくたび魚の体温が私の掌に、火傷のような生温かさを残した。
あの時、私の指先を濡らした血の粘り、魚が跳ねるたびに散った飛沫。
今、バケツの中で舞っている血は、あの日の血と、寸分違わぬ色と形で水中に溶けていた。
ありえない…
3年前の傷口が、なぜ今、新鮮な出血を続けている?
私は、震える手で男の傍らへ歩み寄った。
男はもはや、私を殺そうとする意志さえ失ったように、ただ無心に機械を回し続けている。
「……ブーン…………ブーン…………」
その音が、雨音に混じって変質していく。
ノイズの中に、か細い、だが切実な「音」が混じり始めた。
『……こちら……応答……願……』
剥き出しになった電子基板、泥にまみれたスピーカー。
それは、絶望的なノイズを吐き出し続ける、無残に壊れた無線機だった。
男の左頬が、再び「グチャリ」と音を立てて削れる。
削り取られているのは肉ではない。
その傷口からは、血ではなく、砂嵐のような白黒のノイズが溢れ出し、周囲の景色を侵食し始めていた。
「カチッ」
再び、あの音が響いた。
空を見上げると、そこには奇妙な断層が生じていた。
右半分には、穏やかな現代の夏空。
左半分には、3年前の荒れ狂う嵐の夜。
二つの景色が、まるで剥がれかけた古い写真の裏表が重なるように、激しく明滅している。
私は、自分が立っている地面が、急激に熱を失い、泥の濁流へと変わっていくのを感じた。
目の前の男の姿が、一瞬だけ鮮明になった。
その目は、私を見ているのではない。
3年前のあの日、この場所を通り過ぎようとしていた「誰か」に向かって、必死に助けを求めているのだ。
足元が崩れる。
私は現代の土を掴もうと必死に手を伸ばしたが、指先が触れたのは、3年前の冷たく、無慈悲な奔流だった。
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