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今、読み返せ――夏の読書課題

新しい本は次々に出る。

気になる本を買っているだけでも、積読(つんどく)は着実に増えていく。その一方で、一度読んだ本をあらためて読み返す機会は案外少ない。

今回、昭和女子大学の非常勤公募書類をAIに作らせている過程(念のためもう一度言っておくと応募するつもりはない)でこれまでに書いた書評を整理してみると、確認できただけで57本あった。最初の書評は1990年。最新のものは2026年だから、37年分になる。

さすがにこれだけ時間が経つと、内容をかなり忘れている本もある。書評を書いたこと自体を忘れかけている本さえある。

しかし逆に、刊行当時よりも、むしろ現在のほうが切実に読めるのではないかと思う本もある。

そこで、この夏の自分への読書課題として、過去に書評した本から5冊を選んでみた。

反知性主義、言論と政治、理性、日本と世界、そして専門知と政策決定をめぐる5冊である。

1 リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』

書評: リチャード・ホーフスタッター著/田村哲夫訳『アメリカの反知性主義』みすず書房、2003年。『週刊東洋経済』2004年4月17日号、p.108。

これはまず外せない。

「反知性主義」という言葉は、いまではかなり普通に使われるようになった。

しかし、それを単に「頭の悪い人が知識人を嫌うこと」くらいに理解してしまうと、この本の面白さをほとんど取り逃がしてしまう。

ホーフスタッターが描いたのは、政治、宗教、実業、教育などアメリカ社会のさまざまな領域に流れ続けてきた、知識人や専門知に対する不信や反感の歴史である。反知性主義は民主主義社会の外からやってくる異物ではない。その社会の内部から繰り返し生まれてくる。

私がこの本の書評を書いたのは2004年。もう22年前になる。

その後の世界を見ていると、この本は古くなるどころか、こちらの時代がホーフスタッターに追いついてしまったようにも思える。

SNSが政治や世論形成の重要な舞台となり、「専門家がそう言っている」ということが説得力を持つどころか、ときには反発を呼ぶ。

陰謀論もある。専門知への不信もある。

しかし一方で、「専門家」を名乗れば無条件に信用してよいわけでもない。

反知性主義を嘆くだけなら簡単である。

なぜ人びとは知識人を信用しなくなるのか。

専門家や知識人の側には問題がないのか。

そして民主主義と専門知は、どう折り合えばよいのか。

2026年に読み返すなら、そこまで考えてみたい。

今回の5冊のなかでは、文句なしに最優先の再読本である。

2 増田弘『石橋湛山――思想は人間活動の根本・動力なり』

書評: 増田弘『石橋湛山――思想は人間活動の根本・動力なり』ミネルヴァ書房、2017年。『社会経済史学』84巻2号、2018年8月、pp.105-106。

ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』が、知識人や専門知に対する不信を描いたとすれば、石橋湛山は、ジャーナリスト、評論家、政治家として言論を現実の社会に働かせ続けた。

石橋湛山研究の第一人者である増田弘氏の本書をホーフスタッターとの対比で読み返してみたい。

湛山といえば、まず「小日本主義」が思い浮かぶ。しかし、いま読み返してみたいのは、個々の主張そのものだけではない。

なぜ彼は少数派であっても言論を続けたのか。

現実の政治や経済と向き合いながら、思想を持つとはどういうことなのか。

そして、知識人が社会に向かって語るとはどういうことなのか。

タイトルにも「思想は人間活動の根本・動力なり」とある。

これはなかなか強い言葉である。

知性が社会から信用されないというホーフスタッターの問題を考えたあとで、では知識人の側はいかに社会と向き合うべきなのかを、湛山を通して考える。

この順番で読めば、2018年に書評を書いたときとは少し違った本に見える気がする。

3 富永茂樹『理性の使用――ひとはいかにして市民となるのか』

書評: 富永茂樹『理性の使用』みすず書房、2005年。『週刊東洋経済』2005年3月19日号。

本書の出発点には、もちろんカントのいう「理性の公的使用」がある。他人に指導されるままではなく、自分自身の悟性を使う。その問題を18世紀フランスの啓蒙、市民形成、教育などへ広げて論じていく本である。

これを2005年ではなく、2026年に読む。なかなか刺さりそうである。

私たちは20年前より、はるかに多くの情報に接することができるようになった。

検索すれば、かなりのことがわかる。

そして今では、AIに尋ねれば数秒でそれらしい答えまで返ってくる。

しかし、情報へのアクセスが増えたことと、理性的に考える能力が高まったこととは、もちろん同じではない。

むしろ答えが簡単に手に入るようになったからこそ、最後に残る問題は、

「その答えをどう判断するのか」

ということなのかもしれない。

ホーフスタッターを読んで、知性が信用されなくなる社会について考える。

増田弘を読んで、言論人はいかに社会と向き合うのかを考える。

そして富永茂樹を読んで、そもそも市民一人ひとりが自分の理性を使用するとはどういうことなのかを考える。

この3冊は、かなり良い三部作になる。

AI時代の夏休みに『理性の使用』。

21年前に書評を書いたときには、まさかこんな読み方をするとは思っていなかった。

注)大学ホームページの教員紹介ページに掲載されている私の学生へのメッセージはカントからの引用である()。

4 山室信一『日露戦争の世紀――連鎖視点から見る日本と世界』

書評: 山室信一『日露戦争の世紀――連鎖視点から見る日本と世界』岩波新書、2005年。『週刊東洋経済』2005年9月24日号。

これは現在の自分の授業との関係でも読み返したい。

日露戦争を単純に日本とロシアの二国間戦争として閉じてしまうのではなく、東アジアの国際関係のなかに置き直して考える。

タイトルにある「連鎖視点」である。

この言葉が、いまの私には2005年当時よりも重要に見える。

日本史を日本国内だけで説明しない。

ある政策や制度を、その時代の世界経済や国際秩序の変化と結びつけて考える。

最近の日本経済史の授業でも、そういう視点を以前より強く意識するようになった。

豊臣政権も徳川幕府も、明治国家も、戦間期の経済政策も、日本列島の内部だけを眺めていては十分には理解できない。

外からどのような圧力が加わったのか。

それに対応するため、国家にはどの程度の行政能力が要求されたのか。

世界経済との接続が国内制度をどう変化させたのか。

そんな問題を考えるようになった現在の自分が、この本を読み返すとどうなるのか。

2005年に書評を書いた自分とは、おそらく線を引く場所がかなり違うはずである。

再読とは、本が変わることではない。

読む側が変わったことを確認する作業でもある。

追記:この書評が出たとき、著者の山室先生から非常に丁寧な御礼のメールを頂戴したことを思い出した。

5 牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦――秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』

書評: 牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦――秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』新潮社、2018年。『日本経済思想史研究』第19号、2019年3月。

最後はこれ。

5冊のなかでは、最も最近書評を書いた本である。

それでも今読み返す価値は十分にある。

陸軍の「秋丸機関」には有沢広巳ら経済学者が集められ、日米の経済力を分析していた。

重要なのは、「正しい情報がなかった」ことではない。

かなり正確に日米間の経済力格差を把握していたにもかかわらず、それが対米開戦を阻止する方向には働かなかった。

牧野氏の本が突きつけるのは、「正確な情報」が必ずしも合理的な意思決定を生むとは限らない、という厄介な問題である。

これは戦時期日本だけの特殊な失敗として片づけるには惜しい。

専門家が正確な分析をすれば、政治は合理的な判断をするのか。

データや資料、専門家の意見があったとしても、組織は正しい意思決定をするとは限らない。そこには組織の利害があり、既定方針があり、政治的判断があり、希望的観測があり、ときにはその場の「空気」もある。

ホーフスタッターが「知性が信用されない」という問題を扱っているとすれば、こちらはさらに厄介である。

知性があり、正しい分析も存在している。それでも間違った決定は起こりうる。

今回の5冊の最後には、やはりこの本を置きたい。

20年前の自分と読書会をする

こうして並べ直してみると、5冊がかなりきれいにつながった。

反知性主義、言論、理性、歴史を見る視野、専門知と意思決定。

なかなか重たい夏休みである。

もっとも、今回の再読で面白いのは、本そのものだけではない。

2004年にホーフスタッターを読んだ自分。2005年に富永や山室を読んだ自分。

2018年に増田弘を読み、翌年には牧野邦昭を論じた自分。

そのとき、自分はその本のどこを重要だと思ったのか。そして2026年の現在、読み返したらどこに線を引くのか。

過去の自分と現在の自分を、一冊の本を挟んで対話させてみる。

それもまた再読の楽しみである。

というわけで、この夏の課題図書は5冊。

全部読めるかどうかは知らない。

まずはホーフスタッターを本棚から発掘するところから始めよう。読書以前に、発掘作業が待っている。

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