クリスチャンとしてアヤワスカを振り返る
いつか書いてみたいと思っていたので書く。
ぼくは過去に何度かアヤワスカを体験した。
クリスチャンになる前のことだ。
その体験と、
クリスチャンとしての信仰の関係について、
書いてみたい。
(アヤワスカをご存知ない方は、Wikipediaなどでご参照ください。ざっくり言うと、世界最強と言われる幻覚作用をもつ植物を煎じて飲むお茶です。今はわかりませんが当時は違法ではなく、諸外国でも違法でないことが多いです)
ぼくがアヤワスカを体験したきっかけは、
ある宗教団体がアヤワスカを用いた
「ワーク」と呼ばれる
儀式を催していたことにある。
当時ご縁があり、
参加させて頂けることになった。
アヤワスカがもたらす強烈な体験は、
いまでは多くの人が語っているとおり、
人生を変えるインパクトを持っている。
◆体験したアヤワスカの儀式形態
「ワーク」の形式はこうだ。
祈りから始まり、
アヤワスカを頂き、
半日に渡ってギターとともにみなで歌い続け、
最後は踊って祈りを捧げて終わる。
終わったあとは、
ワーク内での体験をみなでわかちあう。
その宗教はキリスト教カトリックを
ベースにしているが、
ブラジルで生まれた宗教で、
実際にはキリスト教というか
土着の民俗信仰と合体した
不思議な信仰形態をしている。
宗教の形式について詳しく深入りしなかったので
表面的な説明になってしまうが、
アヤワスカによってもたらされる
「ビジョン」のみを信仰し、
教団の創始者を、
そしてイエスとマリアを崇敬するような
そんなあり方だった。
聖書も読まない。
つまるところ、
その宗教にとってキリスト教が
どの程度の要点であったかは
ぼくにはよくわからない。
アヤワスカによってもたらされる
ビジョンに従うのみで、
人間的な教えや教義があるわけではない。
そのため教義の押し付けや
信徒としての加入を促すアクションは一切なく
「来る者拒まず去る者追わず」
といったかなりオープンな宗教だ。
参加している人の中には
ゴリゴリの「スピ系」な人もいるが、
大半はごくふつうの善良な人たちだ。
この教団は
創始者がアヤワスカによって
真理を得たと確信し、
分かち合いなさいとの啓示を受け、
なんとか平和的に問題を起こさないように
人々に伝えようとして生まれたのではと
想像する。
そのことゆえか、
ワークという形式も非常に優れていた。
◆能動的な参加形態の利点
「アヤワスカ」は本場のペルーでは
いまや観光事業の一環にもなっている。
ペルーで行われるアヤワスカセッションでは、
シャーマンが歌い、
服用者は横になってトリップする。
徹底的に「受け身」な形式をとる。
対してこの教団のワークは
みなで歌い、踊り、祈るので、
「能動的」な参加姿勢が求められる。
また参加者へのルールがそれなりにある。
トイレ以外で退室してはならなかったり、
服装の規定や
ワーク中に横になってはならないなど、
姿勢としても真摯であることが求められる。
(実際には横になっても構わないが、参加者はあくまで真摯にワークに携わる姿勢が求められるため、好き勝手にはできない)
この能動的な参加形態と秩序によって、
参加者の間に連帯感や調和がうまれ、
支え合っている感覚がもたらされる。
アヤワスカは服用後しばらくすると、
かなり強烈な吐き気を催す。
あまりに強烈なので、
立ったり座ったりが苦痛になることもある。
そのまま苦痛に意識を持っていかれると、
バッドトリップして
壮絶なトラウマとなる可能性も否めない。
また勝手に退室したり外出してしまうと
思わぬ事故に発展する可能性もある。
その点、
ワークという形式は能動的であるがゆえに
とても優れていたというわけだ。
トリップが深まり、
完全に霊的な次元にぶっ飛ばされる
そのギリギリのラインで
みなで歌いあわせているという現実に支えられて
着地点を見失わずにいることができる。
そこにいる一人一人が、
みんなのために存在している。
要は、安全なのだ。
この形式は発明だと、当時深く感心した。
◆アヤワスカの体験について
個人的な体験について書く。
アヤワスカ服用後、
1時間ほどすると視界が歪み始める。
集まっている会堂が超広大な空間に感じられ、
窓の外の緑が視界を緑色に染め上げる。
トリップが深まると
猛烈な吐き気のあとに嘔吐し、
ほどなくして走馬灯のように
「これまでのこと」が脳裏に浮かぶ。
1秒が1分に感じられ、
ものすごいスピードで様々な回想シーンが
目の前の現実のように再生された。
アヤワスカのトリップは臨死体験というが、
まさにそうしたものだったのだろう。
走馬灯が過ぎ去ると、
自身のどうしようもない自我、
それがひとつひとつ光にあてられ
玉ねぎの薄皮を一枚一枚剥いでいくかのように、
暖かい優しさに包まれることを体感した。
激しい自己否定の末に、
光によって完全に肯定される感覚があった。
現実的な意識も同時にあり、
歌っているみんなの声やギターの音が
天国の楽団のように、
ものすごく荘厳で美しい音に聴こえてくる。
その音色はギターの弦が
金やクリスタルでつくられたもののようで、
残響は金でつくられたトランペットのよう。
あまりに美しい音と、
広大な光の空間にいるような意識。
そこで柔らかく包まれ、
全てが赦されていく感覚を味わう。
自然と涙があふれてくる。
まさに天国のようなビジョンをそこに観た。
その後は2週間くらい、
惚けた気持ちが続いた。
ただ穏やかで、
凪のような気持ちが続いた。
◆受け入れることが恐ろしいアヤワスカ
初めてのアヤワスカはこうした体験だった。
以降も何度かワークに参加したが
同じレベルの体験はできなかった。
というのもアヤワスカには、
トリップの「入り口の感覚」があるのだが、
それを拒否すると「扉」が閉まってしまう。
どういうことかというと、
服用後しばらくして視界や聴覚が歪み、
「始まった」
という感覚を得る。
その始まりにおいて、
正気を保とうと幻覚を拒否すると、
幻覚が霧散して
以降も幻覚があらわれなくなる。
アヤワスカには
強烈な幻覚によって肉体的な縛りを離れ、
霊的な領域をこじ開けるようなところがあり、
拒否するとそうしたことが起きなくなる。
これはぼくの個人的な体験で、
全ての人がそうではないだろうが、
ぼくの場合はたくさん飲んでも
拒否するとそうなっていた。
その逆に、
ごく少量でも
そこそこぶっ飛ばされることもある。
このように、
受け入れなければ
扉が閉ざされてしまうし、
一度受け入れると深くまで連れていかれる。
アヤワスカを受け入れることは
とても恐ろしい。
臨死体験と書いたが、
その後にとても素晴らしい体験が
待っていると頭でわかっていても、
やはり死の淵に臨むような恐怖がある。
制御不能で、
なにをみるかわからない。
この恐怖にのまれ、
拒否を繰り返した。
そのため何度かワークに参加したが
ついぞ最初の体験ほど
深い体験をすることはなかった。
◆信仰と「似通っている」部分
ここまで書いてもしかしたら、
わかってくれる人もいるかもしれない。
というのはぼくにとって
クリスチャンとしての信仰を授かったこと、
信仰を口で告白したことは、
アヤワスカの体験とかなり「似通っていた」。
これまでの記事にも何度か書いた気がするが、
ぼくにとって信仰を告白することは
本当に恐ろしいことだった。
また信仰を授かってからの
内面的変化、得られた平安にも、
「似通っている」部分がある。
その上でぼくはアヤワスカに対して、
何も否定的な見解を持ち合わせていない。
しかしクリスチャンとなった今、
また体験したいと言う気持ちも、
今のところない。
外的な物質によって意識を変容させて、
霊界を覗き見る行いは
今のじぶんには必要ないからだ。
だがそれでもやはりアヤワスカも
神様がもたらした奇跡の一つだと思う。
ぼくはアヤワスカの体験の中で
「光」に出会ったが、
その感触は神様の愛に非常に似ている。
本当にただの幻覚かもしれないが、
それはぼく個人の体験であって
誰とも共有できるものではない。
つまり相対的にそれが「何か」を
論じ同定することはできない。
「似ている」ということにしておいて、
それ以上の探究を今のところする気もない。
そしてまた信仰と決定的に違うことは、
ぼくの場合はそこには罪の意識も
悔い改めも十字架もなかったことだ。
(会堂には十字架が飾られていたが……)
そして何より、
そこでは神様ではなくじぶんが中心だった。
あくまでぼくの場合は。
ただ、
アマゾンに自生する二万種という植物から
たった二種の植物を選り抜き、
それを煎じ煮詰めて服用することで
とんでもない体験をすることを見出した、
その事実に畏敬の念は禁じ得ない。
それも、何千年も前に!
そう、
もちろんこれはサタン的な出来事かもしれない。
だが人間はあらゆるところに
神様の愛を感得しうる。
だからこうした幻覚性物質などは、
一概に否定するものでもないように思う。
人間はこうした物質を受容し、
意識の変容を得るようにデザインされている。
その事実は決して
「無意味なこと」ではないと思う。
◆アヤワスカは神様への道のひとつ?
クリスチャンにとっての幸いは、
こうした外部物質に依らずに
神様とつながれることにある。
神様との間に、何も必要ない。
むしろ間に何か挟まることで、
遠ざかってしまう。
だからぼくにとっては必要がなくなった。
もしまた機会が与えられ、
必要性が与えられたならば、
喜んで授かりたいとは思うが、
今のところその予感はない。
だが時々、思い出す。
そしてまた、この体験があったことに感謝する。
この体験も少なからず、
ぼくが信仰を授かる経緯に
影響しているかもしれないから。
実際にぼくはこの体験のあと、
当時の仕事への情熱を急激に失った。
ついでに鬱な状態がしばらく続いた。
これは恨み言でもなんでもなく
事実そうなっただけのことで、
またそのことがなければ
ぼくが改めて20年越しの信仰に導かれることも
なかったかもしれない。
全ての出来事は、
神様への道につながっている。
かもしれない。。。
◆もし道のひとつであるならば願うこと
いま、
道に悩む人々が海を渡り、
アヤワスカを体験したりしている。
著名人による発信が増え、
興味を持つ人が増えている。
アヤワスカは確かに霊的な領域を拓く。
そこには様々な悪霊もやって来るかもしれない。
だから初めての場合は最大限、
安全で信頼できるところを探して欲しい。
真摯に臨むことで、
メディスンとしての効果もあるだろう。
ぼくはクリスチャンだからその癒しが、
神様に繋がる道であってほしいと願う。
そしてまた体験を通じて、
人々が神様の愛に触れるきっかけとなることを
心から願っている。
世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。
◆結びに
ぼくはアヤワスカを推奨はしない。
これは単に
諸々のリスクがあるからというわけではなく
ぼくがクリスチャンだからだ。
また、こうも言いたい。
世にあるどんな幻覚物質や、
ドラッグなどよりも、
信仰を授かるということ、
イエス・キリストの福音を
受け入れることは、
本当に素晴らしいものだということ。
ヘロインの快楽だろうがなんだろうが、
この恵みには遠く及ばないだろう。
信仰に勝る恵みはない。
