研究室から医療へ ― 空間オミクスが変える創薬と診断
腫瘍微小環境、空間バイオマーカー、そして臨床実装の条件
▼この記事でわかること(3行サマリー)
腫瘍微小環境の「空間パターン」(免疫炎症型・排除型・砂漠型、TLS)が治療応答とどう結びつくかがわかる
創薬パイプラインのどこで空間オミクスが効くか(標的検証・作用機序・患者層別化)がわかる
臨床実装に必要な条件(標準化・FFPE・規制・人材)と、現時点での限界がわかる
初めての方へ:シリーズ最終回です。第1回で3層の技術を、第2回で統合解析を扱いました。今回は「それが何の役に立つのか」——研究成果を創薬や診断という実社会の意思決定につなぐために、何が見えていて、何が足りないのかを整理します。
「どこにいるか」が、治療の効き目を決める
がんの治療において、長らく重視されてきたのは「何があるか」でした。この腫瘍にはどんな変異があるか、PD-L1がどれだけ発現しているか、変異の総量(TMB)はどうか——分子の量を測り、それを指標に治療を選ぶ。これが従来の考え方です。
ところが、同じPD-L1陽性でも免疫療法が効く人と効かない人がいます。同じ変異量でも結果が分かれます。なぜでしょうか。
その答えの一つが、空間配置にあります。免疫細胞が腫瘍の中にどれだけ入り込んでいるか。腫瘍細胞とT細胞が実際に接触できる距離にいるか。それとも周囲の線維組織に阻まれて、腫瘍の外側で足止めされているか。同じ細胞が「いる」ことと、「効く位置にいる」ことは別なのです。
この視点から腫瘍微小環境(TME)を分類したのが、免疫の3つの表現型です(図1)。

図1 同じ「免疫細胞あり」でも、配置が違えば結果が違う。 免疫炎症型(inflamed)=T細胞が腫瘍内部に十分浸潤し、免疫チェックポイント阻害薬が比較的効きやすいとされる。免疫排除型(excluded)=T細胞は存在するが、線維組織などに阻まれ腫瘍周縁にとどまる。免疫砂漠型(desert)=そもそも免疫細胞がほとんどいない。従来の「発現量」だけでは、この違いを捉えられない。
免疫炎症型は、CD8陽性T細胞が腫瘍内部にしっかり入り込んでいる状態で、免疫チェックポイント阻害薬が効きやすいとされます。免疫排除型は、T細胞は存在するものの、細胞外マトリックスに富んだ間質に阻まれて腫瘍の周縁に滞留している状態。免疫砂漠型は、そもそも免疫細胞の浸潤が乏しい状態です。この3型は、治療戦略を考えるうえでの出発点になります。排除型なら「なぜ入れないのか」を、砂漠型なら「どうすれば呼び込めるか」を考える、というように。
さらに近年注目されているのが、三次リンパ組織(TLS:Tertiary Lymphoid Structures)です。これは腫瘍の周辺に形成される、リンパ節に似たB細胞とT細胞の集合体で、その存在が免疫療法への良好な応答や予後と関連することが多くのがん種で報告されています。興味深いことに、TLSがどこにあるかも重要で、腫瘍の中心や浸潤縁など腫瘍細胞の近くにあるTLSは良好な転帰と結びつく一方、腫瘍から離れた炎症部位のTLSはその意義が異なる可能性が指摘されています。まさに「位置が意味を持つ」典型例です。
空間バイオマーカーという考え方
こうした知見から生まれつつあるのが、空間バイオマーカーという概念です(図2)。

図2 「量」から「配置」へ。 従来のバイオマーカー(左)は、PD-L1発現率やTMB、MSIといった分子の量・数を指標にする。空間バイオマーカー(右)は、免疫細胞の浸潤度、腫瘍細胞とT細胞の距離、細胞間の接触頻度、TLSの有無と位置といった配置の情報を定量する。組織の文脈を捉えられるぶん、応答予測の精度向上が期待されている。
具体的には、免疫細胞の浸潤の程度、特定の細胞型どうしの近接性・距離、細胞間の接触頻度、TLSの有無と位置といった指標を定量化します。これらは、第2回で扱ったニッチ解析や近傍解析の出力そのものです。つまり、統合解析の技術がそのまま臨床的な指標づくりにつながっているわけです。
そして重要なのは、こうした空間的な指標が、従来のPD-L1発現やTMBを上回る予測性能を示しつつあるという報告が増えていることです。もちろん、まだ検証段階にある知見も多く、過度な期待は禁物ですが、「量だけでは足りない」という方向性そのものは、多くの研究が一致して示しています。
創薬パイプラインのどこで効くか
視点を創薬に移しましょう。空間オミクスは、医薬品開発のどの段階で価値を生むのでしょうか(図3)。

図3 標的探索から層別化まで、4つの使いどころ。 ①標的の探索と検証:狙う分子が「どの細胞の、どの場所で」発現しているかを確認できる。②作用機序の解明:投与前後の組織を比べ、薬が微小環境をどう変えたかを見る。③耐性メカニズムの解明:効かなくなった腫瘍で、空間的に何が起きているかを探る。④患者層別化とコンパニオン診断:空間パターンで応答しやすい患者を絞り込む。
標的の探索と検証では、「その分子が本当に狙うべき細胞で発現しているか」を確認できます。バルク解析では平均に埋もれ、シングルセルでは位置が失われる情報——たとえば「この分子は腫瘍の中心部の細胞だけが出している」といった知見が、標的の妥当性判断を変えます。
作用機序の解明は、空間オミクスがとりわけ光る領域です。薬剤の投与前後で組織を比較すれば、「薬が微小環境をどう変えたか」を直接観察できます。免疫細胞が腫瘍内部に入り込むようになったのか、線維化が緩んだのか。効果の理由を、組織の文脈で説明できるようになります。
耐性メカニズムの解明も同様です。初めは効いていた薬が効かなくなったとき、腫瘍のどの領域で何が起きているのか。空間的な不均一性——腫瘍内に異なる性質の領域が共存する状態——を捉えられることが、耐性の理解に直結します。
そして患者層別化とコンパニオン診断です。前述の空間バイオマーカーを使い、治療が効きやすい患者を事前に絞り込む。ここまで来ると、研究のツールから診断の道具への移行になります。
市場面でも、この流れは数字に表れています。ある市場調査では、空間バイオロジー市場は2025年に約9.7億ドル、その後5年間で年率19%程度の成長を続け、2030年には約23.7億ドルに達すると予測されています(あくまで予測値ですが、製薬企業の関心と採用の広がりを示す一つの指標といえます)。
臨床実装に必要な条件
ここからが、この記事でいちばん現実的な話です。研究で「見える」ことと、医療で「使える」ことの間には、大きな距離があります。
第一に、標準化と再現性。施設が違えば、装置が違えば、抗体のロットが違えば結果が変わる——では臨床検査として成立しません。前処理から解析パイプライン、判定基準までの標準化が不可欠です。第2回で扱ったセグメンテーションやデコンボリューションの手法選択が結果に影響する以上、「どの手順で出した数値か」を固定する必要があります。
第二に、FFPE検体への対応。病理標本の多くはホルマリン固定パラフィン包埋(FFPE)で保存されています。臨床応用を目指すなら、この検体で安定して動くことが前提条件です。凍結標本でしか動かない手法は、研究では強力でも臨床では使いにくい。
第三に、コストとターンアラウンドタイム。治療方針の決定に間に合わなければ、どれほど精密な情報も意味を持ちません。検査として成立する価格帯と日数に収まるかは、技術的な精度と同じくらい重要です。
第四に、規制対応。診断に使うなら、体外診断用医薬品としての承認プロセスが待っています。解析ソフトウェアも含めた妥当性の検証が求められます。
そして第五に、解釈できる人材です。空間データは情報量が膨大で、しかも画像・行列・ゲノムという異質なデータが混ざります。これを臨床的な意味に翻訳するには、病理医とバイオインフォマティシャンの協働が欠かせません。がんゲノム医療でエキスパートパネルが果たしている役割に近いものが、空間データにも必要になるはずです。
この最後の点は、技術の進歩だけでは解決しません。人を育て、協働の場をつくることが、実装の速度を決めます。
AIとの接続、そして冷静な視点
もう一つ、今後を左右する要素があります。AIとの接続です。
空間データは本質的に画像を含むため、画像基盤モデルやマルチモーダルAIとの相性が良い領域です。膨大な組織画像から空間パターンを自動で抽出し、臨床転帰と結びつける——そうした研究が進んでいます。人が目で追える細胞の数には限りがありますが、AIならその制約を超えられます。第2回で扱った統合解析の一部が自動化されれば、実装のハードルは下がるでしょう。
ただし、ここでも冷静さは必要です。空間オミクスはまだ標準化の途上にあり、多くの研究はコホート規模が限られています。異なるプラットフォーム間で結果がどこまで一致するかの検証も、まだ十分とはいえません。「空間で見たらこう見えた」という所見が、大規模な集団で再現され、臨床転帰と頑健に結びつくことを確かめる作業が、これから本格化する段階です。
期待と検証のバランスを取りながら進めること——それが、この技術を本当に医療に届けるための条件だと思います。
なお、本記事は技術と実装の解説であり、診断・治療の判断は主治医や専門の医療機関に委ねられるべきものです。
まとめ(そしてシリーズの結びに)
第3回の要点を3つに整理します。
第一に、腫瘍微小環境は「何があるか」だけでなく「どこにあるか」で治療応答が変わります。免疫炎症型・排除型・砂漠型という3つのパターンや、TLSの有無と位置が、免疫療法の効きやすさと関連することが報告されています。第二に、こうした知見から空間バイオマーカー(浸潤度・近接性・接触頻度・TLS)という考え方が生まれ、創薬では標的検証・作用機序の解明・耐性の理解・患者層別化という4つの使いどころで価値を生んでいます。第三に、臨床実装には標準化・FFPE対応・コストと納期・規制・人材という5つの条件があり、いずれも技術の精度とは別の課題です。とくに病理医とバイオインフォマティシャンの協働は、育てるのに時間がかかる要素です。
全3回にわたり、空間オミクスの3層(第1回)、統合解析の技術(第2回)、そして社会実装(第3回)を見てきました。通底していたのは、位置情報が加わることで、生命現象の理解が「量」から「文脈」へと深まるということです。同時に、その情報を扱うには推定を重ねる慎重さと、検証を欠かさない姿勢が求められます。技術は着実に進んでいます。あとは、それを意思決定につなぐ人と仕組みをどう整えるか——そこにバイオインフォマティクスの役割があると考えています。長い連載にお付き合いいただき、ありがとうございました。
保存して、空間オミクスの実装を考えるときの地図にしてください。
そして、ひとつ教えてください——空間オミクスを実装するうえで、最大のハードルは何だと思いますか? 標準化? コスト? 規制? それとも解釈できる人材? コメントで教えていただけると、今後の記事づくりの参考にします。
出典・参考リンク
Spatial omics at the forefront: emerging technologies, analytical innovations, and clinical applications. Cancer Cell, 2025. https://www.cell.com/cancer-cell/fulltext/S1535-6108(25)00543-4
Tumor battlefield within inflamed, excluded or desert immune phenotypes: the mechanisms and strategies. Experimental Hematology & Oncology, 2024. DOI: 10.1186/s40164-024-00543-1
Tertiary lymphoid structures and cancer immunotherapy: From bench to bedside. Med (Cell Press), 2024. https://www.cell.com/med/fulltext/S2666-6340(24)00421-5
Spatial omics: applications and utility in profiling the tumor microenvironment. 2025. https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC12672822/
Method of the Year 2024: spatial proteomics. Nature Methods, 2024. DOI: 10.1038/s41592-024-02565-3
市場予測(DeciBio調査に基づく報道): Drug Discovery World『How is spatial biology rewriting the rules of oncology drug discovery?』 https://www.ddw-online.com/
