灰にならない煙草を吸いに
スマホが鳴ったのは、駅の改札を出てすぐのことだった。
通知は三件。同僚からの短いメッセージがひとつ、まだ既読のつかないグループチャットのお願いがひとつ、それから、職場の地域でよく一緒にいる友人が飲み屋で笑っている写真がひとつ。
指先でそれを閉じても、頭の中では画面の映像がまだちらついているような気がした。
夜になっても、空気は昼間の熱をそのまま抱えて、シャツが背中に張りついてくる中、改札を出た瞬間から、蝉の声はもうやんでいた。
かわりにどこかで鳴いている虫の声だけが、途切れずに続いていた。
電車の中で、彼は自分の存在が少しずつ薄くなっているような、そんなことを感じながら、誰かの肘が背中に触れ、誰かの鞄が足に当たり、そのたびに、どちらのものともつかない小さな詫び言葉が漏れる。
・
今日は、お盆に帰省していた実家から自分の家に帰る途中だった。実家を出るとき、誰かが「またね」と言った声も、耳の表面をすべっていっただけだった。
エレベーターの中で、彼は自分の顔が液晶の広告に映り込んでいるのに気づいた。
連休だったのにずいぶん疲れた顔をしている。
帰りの道は、いつもと同じはずだったけれど、気づくと、駅前の大通りではなく、一本裏の、細い通りを歩いていた。両側にはシャッターの下りた店が並び、街灯だけが等間隔に、ぼんやりとした輪を路面に落としている。
人の気配はなく、遠くでどこかの室外機が低く唸っているだけだった。汗が首すじを伝って、シャツの襟にしみこんでいくのがわかった。
そのシャッターの隙間に、明かりのついた小さな窓があった。
看板はない。
ガラス戸の向こうに、煙草の箱がぎっしりと積まれているのが見えるだけだった。
駅前は、静かに昔の森を夢見ている木の匂いがしているのだが、このあたりはその木の匂いの中に混じって、古い紙の匂いのようなものが閉じたガラス越しにも、うっすらと漂ってくる気がした。
なぜだかそこに、吸い寄せられるように足が向いた。
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ガラス戸を、指先でこつん、と叩く。
中から出てきたのは、年齢のよくわからない老人だった。白でも黒でもない髪を後ろでひとつに結び、着ているものは古い作業着のようでもあり、どこか実験着のようでもあった。
「いらっしゃい」
声は低く、静かだった。店の中は、片方の壁いっぱいに古びた紙巻き煙草の箱が並び、もう片方には、見たこともないかたちの機械が、控えめな明かりを灯して並んでいる。
冷房が効いていて、外の熱気とはまるで違う、乾いた涼しさがあった。古い紙と、金属の匂いが薄く混ざっていた。
「煙草を、探しているわけじゃないんです」
彼は言いながら、自分でも何を言っているのかよくわからなかった。
「紙巻きでも、電子のものでもなくて」
老人はしばらく彼の顔を見ていた。値踏みをするというより、煮え切っているような目つきだった。
カウンターの向こうで、何かの器具が小さく息をするような音を立てていた。
「疲れているのか、それとも、疲れることにさえ疲れているのか」
老人は独り言のようにそう呟いた。彼はどちらとも答えられず、ただ小さく頷いた。
「タバコなんてコンビニで買えばいいものなのに、そういう客が、たまに来る」
そう言って、カウンターの奥からラベルのない、マットな質感のカートリッジをひとつ取り出した。
手のひらに乗るくらいの、細長いそれは、指で触れると、思ったより温かかった。
「タバコの葉っぱは入っていない。目に見えない空気を吸い込むためのものだ」
彼はそれを、しばらく見つめた。特に何の変哲もない、ただの小さな筒だった。
「火をつけても、灰にはならない。別の形に変わるだけさ」
その言葉は、教えるというよりは、ただ独り言のように店の空気に溶けていった。
老人は、専用らしい細長い器具にそれを差し込み、無言でカウンターに置いた。彼は椅子に腰かけ、しばらくその器具を見つめてから、ゆっくりと口にくわえた。
窓の外を、誰かの自転車の音が通り過ぎていった。
深く、息を吸い込む。
喉を通り抜けたのは、煙といより、冷たい氷から出ている湯気みたいなものだった。ドライアイスのガスが足元の周りに漂っているかのような静けさで、ちょうど、汗ばんだ体で冷房の部屋に入ったときのような、乾いた冷たさ。
それは肺の奥まで届いてから、しばらくそこに留まり、やがて静かに満ちていくのがわかった。
息を吐くと、白い煙は出てこなかった。
かわりに、口の先からこぼれ落ちたのは、淡い金色の砂のようなものだった。それは空気の中で消えることなく、さらさらと乾いた音を立てながら、足元の小さな受け皿に落ちていった。
それらがひとつずつ、静かな熱にあぶられて、姿を失っていくようだった。
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受け皿の中で、砂はすでに小さな山になっていた。
誰の記憶にも残らない時間の重みのような、それでいて、どこか懐かしい色をしていた。しばらくの間、店の中には、砂の落ちる音以外、何も聞こえなかった。老人も何も言わず、ただカウンターの向こうで、機械の小さな明かりを眺めているだけだった。
彼はもう一度、深く息を吸い込んだ。
二度目は、一度目よりも静かで、喉の奥を通り抜けていくものが、もう恐ろしいものではなく、ただの冷たい水のように感じられた。吐き出された砂は、また少しだけ、皿の上に重なった。
窓の外で、自動販売機の光が点滅しているのが見えた。
紙巻き煙草の灰のように、いつまでも汚れて皿に残るものではなかった。かたちを変えて、綺麗に手放されたもの。彼はその小さな山を、長いあいだ見つめていた。
「自分の考えも、こうやって熱して、綺麗に処理できたらいいのに」
思わずそうつぶやくと、老人は何も答えず、ただ薄く笑っただけだった。答えを求められているわけではないのだと、彼にもわかった。
器具を置き、代金を払う。自動販売機のジュース一本ほどの、驚くほど安い値段だった。
硬貨を数える老人の指先を、彼はぼんやりと見ていた。老人は釣り銭を渡しながら、こう言った。
「持って帰れるものは、何もない。持って帰らなくていいものも、ここに置いていける」
それだけで説明はなかったし、彼もそれ以上は訊かなかった。
ガラス戸を開けて外に出ると、夜の熱気がまた体にまとわりついてきた。それでも、さっきよりは息がしやすかった。
ポケットの中には、行きに感じていたはずの重みが、もう見当たらなかった。かわりに、頭の中には、久しぶりに感じる余白のようなものが、静かに広がっていた。
スマホが、また鳴った。
けれど、その音は、さっきまでのように彼を急かすことはなかった。ただ、遠くで誰かが呼んでいるような、そのくらいの認識だった。
彼は振り返らずに、シャッター街を後にし、歩調は、来たときよりも、いくらか軽く、街灯の輪をひとつ、またひとつと踏みながら歩いた。
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大通りに出ると、いつもの景色が戻ってきた。
コンビニの明かり、たまに行き交う車のヘッドライト、遠くで誰かが花火でもしているのか、小さな破裂音が二度、三度と続いた。
彼はその音のするほうを、なんとなく振り返ったけれど、何も見えなかった。
ただ、夜空の低いところが、ほんの一瞬だけ、明るくなったような気がした。
あの店が、明日もそこにあるかどうかは、わからない。歩きながら、彼はそのことを、それ以上は考えなかった。
ただ、蝉の声のかわりに鳴いている虫の音が、いつのまにか、ずいぶん優しく聞こえていた。
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