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映画「八日目の蝉」を出しにした哲学エッセイ

親子について。本当の親とは何か。子にとって、産みの親か育ての親か。「私たちの幸せな時間を返してください」と法廷で泣き叫ぶ主人公の実母。四年間の空白とその影響について。

野々宮希和子にとって薫は「赦し」であった。何に対してか。中絶を余儀なくされた実の子に対してか。タイトル「八日目の蝉」に原作者がこめた思いとは何か。

このエッセイで私が示す論点は三つだ。一つ目は親と子について。主人公と希和子、また主人公と実親との関係性。産みの親か育ての親かという問題もある。「血はあらそえない」などと言ったりもするが。子にとって大切なのはどちらか?どちらが、という話でもないのかもしれない。どちらにせよ、子の生育上、多大な影響を持つ。では、どちらを取るべきなのか。

ここで善悪を持ち出すと、作品の色合いが褪せてしまう。最初に法廷シーンを持ってきた狙いも分析する。希和子にとって、刑に服してでも守りたいと思った。薫にとってそれほどの存在、その重さはじゅうぶんに考慮されるべきだ。やはりこの作品は、善悪とか法律上どうであるとか、そういったものをいったん傍に置いておいて欲しいという原作者の意図として読み取れる。現実であれば、すぐに希和子は指名手配されてしまうだろう。そういうフィクション性が支える作品の主眼をこれから明らかにしていきたい。

二つ目は男と女について。主人公・薫と岸田、また希和子と秋山。そして浮気や不倫について。親子だから(ここでは育てのという意味)似たような男を好きになってしまうのか。はたまた、こんな男が世にはびこっているためか、田中哲司演じる秋山にしても、劇団ひとり演じる岸田にしても、ずるい男のテンプレのように描かれている。私は「逃げ男」と呼ぶことにする。

さて、不倫について私見を述べたい。浮気や不倫は、結婚当事者同士の重大な契約違反である。しかしながら、これで割り切れる話でもあるまい。かくいう私も結婚前には次のように思っていた。これは本人同士、当事者間に限定される問題であると。しかしながら、結婚後に、またさまざまな有名人のスキャンダルを思い起こすにつけ、その社会的波紋の大きさや、とくに子に対する多大な影響が考えられ、私の考え方も徐々に変化してきた。

三つ目は、友情について考えるべき点があること。薫と千草の関係について。千草は、薫に向かって「一緒に母親やろっか」とまで言っている。ここまで考えてみると、原作者が、産みの親と育ての親とのどちらに重きを置こうとしているのか、ほとんど反論の余地がなくなるようにも思う。いうまでもなく、四歳まで育てた「育ての親」に軍配を上げた。幼少を同じ境遇で過ごした何年かが、千草のこの言葉を支えている。そして、薫と希和子の関係を補強しているのだ。

これは原作者の問いかけであり、時代への挑戦だ。親子とは血縁か、共有した時間か。答えは、あなたの中にあればそれでいい。子が母胎の中に生きる10か月という月日もまた、無視できるものではない。このことを加味してもまた、より愛してくれたのはどちらかということに帰着できるようにも思う。

これも時代なのかとも思う。ここでは、実の親子関係が軽く扱われている感は否めない。現実の多くはこうであるのかもしれない。毒親という言葉を聞くようになって久しいし、家族の機能不全というような話は実によく耳にする。結果として本作では、実の親子関係が揺らいでいるという現代性をも示されることになった。時代を象徴している。

三つ子の魂百までともいう。薫は、希和子との関係を引き裂いた社会だったり、制度だったり、実父母だったり、何もかもを無邪気に憎んだに違いない。がしかし、ずっと「この島に戻りたかった」のだから。それこそが真実だ。

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