私も世界も五蘊の渦巻き――仏教的なものの見方とは?|ゆるねこ仏教オンライン講座46より
2025年3月25日(火)開催された「ゆるねこ仏教オンライン講座」第46回の質疑応答をもとにしたコラムです。受講者から寄せられた質問に答えて、「五蘊」という仏教的なものの見方について深堀りしてみました。その他、非暴力(アヒンサー)や経典によく出てくる「蓮の葉の上の水滴」の喩えについても、受講者の皆さんといっしょに考えてみました。
私も世界も五蘊の渦巻き
佐藤:皆さん、今日もお付き合いいただき、ありがとうございました。何か質問やご感想、疑問に思ったことなどがありましたら、マイクのミュートを外してお気軽にお話しいただければと思います。いかがでしょうか?
受講者A:今日もありがとうございました。質問なんですけれど、先ほどの講義の中で「五蘊の流れには、自分の内側と外界(外側)のふたつがある」とおっしゃっていましたよね。そこのあたりをもう少し詳しく教えていただけないでしょうか。「外側の五蘊の流れ」というのが、いまひとつピンとこなくて……。(※以下の動画の09分10秒頃~)
内と外の境界線と〈存在〉の錯覚
佐藤:仏教的の基本的なものの見方、観察方法として、「内(ajjhatta)」と「外(bahiddhā)」という分け方をします。まず自分という存在がありますよね。仮に肉体として見れば、皮膚によって区切られている「自分の領域」があります。その皮膚の内側で、色・受・想・行・識という「五蘊」の要素が絶え間なく働いている。私たちはそれを仮に「生命」とか「私」と呼んでいるわけです。
でも、私たちが認識している世界というのは、その自分の皮膚の内側だけでは完結していませんよね。自分の認識機能を通して知覚している「外側の世界」にも、実は同じように動いている別の五蘊の流れが存在するんです。
たとえば、家にいるご家族だったり、一緒に暮らしているペットの動物たちだったり。あるいは一歩街に出かければ、周りにはたくさんの人々や動物たちがいて、それぞれが動いていますよね。これらもすべて、広い意味での「五蘊の流れ」なんです。一人ひとりが、自律運動している一つの『渦巻き』のようなものだとイメージしてみてください。
受講者A:渦巻きですか……
佐藤:そう、渦巻きです。自分という一つの渦巻きがあって、そして自分の認識機能を通して知ることのできる外側にも、無数の渦巻きが渦巻いている。
そして私たちは、その外側の渦巻きに対して、いろいろな概念を重ね合わせます。あえてそこに「〇〇さん」とか「猫のサーリーちゃん」といった名前をつけて、ある観念をくっつけて、あたかも実体を持っているかのような、「固定的な存在」として認識するわけです。これが「内と外の五蘊」という一つの見方(観察方法)ですね。
もうひとつ、仏教には「六処」という観察の仕方があります。私たち生命には、眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの認識器官(六処)があって、それに対応する色・声・香・味・触・法という対象(六境)を捉える。そして、それを心(意)によって、ひとつの像として合成するんです。
そうやって合成された像を見て、私たちは「外界にたしかに何か独立した存在があるんだ」と錯覚し、同時に「それを見ている自分という確固とした何かが存在するんだ」とも錯覚してしまう。
重なり合う錯覚のレイヤー
つまり、私たちの生きている世界というのは、錯覚と錯覚のレイヤー(層)が幾重にも重なり合ってできあがっているんです。その幾重もの錯覚のレイヤーによって、あたかもそこに複雑でリアルな「世界」が、あたかも「ある」かのように感じながら、私たちは日々の生活を送っているんですね。
受講者A:錯覚のレイヤー……なるほど。
佐藤:それで、その複雑に構成された錯覚の世界の中で、私たちはさまざまな感情を抱き、煩悩を生み出して、何かに強烈に執着したりするわけです。心の汚れがどんどん作られて、それが「トリモチ」みたいになって、結果として輪廻の複雑な世界へとどっぷり首まで浸かっていく……というのが、私たちの苦しみのカラクリなんですね。
ですが、一番シンプルに物事を削ぎ落として見れば、すべては「ただの五蘊」なんです。
「私」という心と身体のシステムが、五蘊という形で渦を巻いていて、外側にもーーそれは自分の認識機能を通して知るしかないけれどーー無数の五蘊の渦巻きが存在している。そして、その渦巻きと渦巻き同士が相互に関係し合い、影響を及ぼし合う中で、なんとなく関係性や現象が生まれてきているだけなんです。
聖者の見方に達すれば煩悩は起こり得ない
仏教の「聖者の見方」、つまり覚りに達した方々の視点から眺めれば、そこには固執すべき「自分」も「絶対的な実在」も最初からありません。ただ因果関係によって、ものごとがなるようになっているだけ。
ですから、本質的には何事に対しても腹を立てたり、過剰に欲張ったりすること自体、成り立たないはずなんですね。しかし、そこに様々な幻覚や思い込みが複雑に絡みついてしまうことによって、私たちはそのドラマの中に一喜一憂して、のめり込んでしまう。先ほどの「内と外の五蘊」というのは、そういうことを言っていたんだと理解して貰えればいいんじゃないかと思います。
受講者A:よく分かりました。ありがとうございました。
非暴力(アヒンサー)とサバイバルゲーム
佐藤:はい、ありがとうございました。他の方はいかがでしょうか? チャット欄のコメントでも、マイクをオンにして直接お話しいただいても大丈夫ですよ。
受講者B:今日のお話を聞いていて、特に「アヒンサー(非暴力)」というテーマが心に残りました。
実は今、私が住んでいる宮崎の方で、ちょっとした議論になっている問題がありまして……。地元にあるお城の敷地を使って、子供たちにレーザーガン(光線銃)を持たせて、サバイバルゲームをやらせるようなイベントがあるんです。
最初は「まあ、昔の合戦の再現みたいなイベントなのかな」くらいに軽く思っていたのですが、今日「非暴力」や「暴力性」についてのお話を聞いて、こういう遊びって子供たちの心にとっても、やっぱりちょっと問題があるんじゃないかなと感じまして……。非暴力という立場から見ると、子供に現代的な銃の形をしたものを持たせるとなると、ちょっと違和感がありまして。そういう遊びは少し危険なんじゃないかと思ったのですが、佐藤さんはどう思われますか?
怒り憎しみを残さない工夫
佐藤:まあ、男の子をはじめ子供たちって、そういう戦いごっこやサバイバルゲームみたいなもの、基本的に大好きですからね。正義の味方ごっこやチャンバラなんて、みんな燃えますよね。僕自身も小学生の頃だったら「うわーっ!」って大喜びして、夢中でやっていたかもしれないです。
ですから、そういった遊びの形式そのものが、ただちに悪かというと、一概には言えない面もあります。実際問題として敵を殺すわけではないですし。
ただし、もしその遊びが終わった後にも「あいつ、絶対に許さねえ」とか「あっちのチームを叩きのめしてやる」みたいな本気の憎しみや敵対心が残ってしまうようなら、それは間違いなく危険ですし、よろしくない状態です。
スポーツを通じた社交と人間成長
とはいえ、よく考えてみれば「スポーツ」という文化全般が、もともと人間が持っている野生的な攻撃性や暴力性を、どうやって安全な形にコントロールし、社交のためのツールとして洗練させていくかという過程で生まれたものでもありますよね。
よく知られてる話ですけど、ラグビーには「ノーサイド」という精神があって、試合が終われば敵も味方もなくなります。サッカーでも試合後にユニフォームを交換し合って健闘をたたえ合いますよね。荒っぽいぶつかり合いをするけれど、ルールという枠組みの中で社交のためのゲームへと昇華させているわけです。
サバイバルゲームに関しても、スポーツに比べると少し生々しくて野蛮な感じがするかもしれませんが、ルールや配慮がしっかりしていれば、終わった後に敵味方関係なく「いやぁ、今日のバトル楽しかったね!」と笑顔で言い合えるような、健全なコミュニケーションの場にすることも不可能ではないと思うんです。
要するに、そのイベントを周りの大人がどういう意図で、どう誘導し、演出するか、という持っていき方次第なのかなと。
受講者B:大人の持っていき方次第ですか……
佐藤:そうそう。だって普通のスポーツだって、サッカーの国際試合に熱くなりすぎて暴動が起きたり、戦争にまで発展することだってあるわけでしょ。老人のゲートボールですら、試合中の遺恨から殺人事件が起きたりしましたよね。
サバイバルゲームであっても、お互いを尊重し合う紳士的なマナーを学ぶ「楽しい遊び」として活かすこともできれば、逆にお互いに憎しみ合ったり、本物の戦争の訓練みたいになってしまう危険性もある。そこは周囲の大人の配慮とデザインにかかっていますね。
「道具の見た目」には気をつけるべき
ただそういう前提を踏まえたうえで、おっしゃる通り「道具の見た目」に関する違和感というのは、大切なポイントだと思います。
たとえば「スポーツチャンバラ」ってありますよね。プラスチックやスポンジでできた柔らかい安全な刀を使って打ち合うような競技です。僕の住んでいる湘南の地域でもやっている方がいるんですが、あれなら誰が見ても「明らかに安全なおもちゃ」「これはスポーツなんだ」と分かりますよね。道具を見るだけで遊びとしての線引きがはっきりしているから、安心して楽しめます。
ところが、もし自衛隊が使っている本物の銃とまったく同じデザインのアサルトライフルの模造銃を使わせるとなると、急に「戦争のリアリティ」が前面に出てきてしまって、生々しく感じられますよね。
そうではなくて、たとえば銃身を真っ黄色や真っ赤なプラスチックにして、一目で「おもちゃの光線銃」だと分かるようなデザインにする。そうやって「これは現実の暴力ではなく、明確に安全な遊びですよ」という境界線をはっきり示す工夫をするだけでも、子供たちの心理に与える影響は大きく変わってくるはずです。
道具や演出の面で「これは遊びである」という配慮や工夫を大人がすることですね。子供たちの情操教育としてマイナスの影響が出ないように、大人が知恵を絞ってうまくアレンジしてあげることも大切だと思います。
かといって、大人がガミガミと干渉しすぎると子供たちも冷めてしまって面白くなくなってしまいますから、そのあたりの「遊びの楽しさ」と配慮のバランスを取る調整、アレンジメントが、大人の役割なのかなという気がしますね。
受講者B:ありがとうございます。
「蓮の葉上の水滴」の喩えをめぐって
佐藤:他にご意見やご質問のある方はいらっしゃいますか?」
受講者C:体調不良の中、講義をありがとうございました。
佐藤先生:こちらこそ、ありがとうございます。実はここ2、3週間ほど前に風邪をひいてしまって、それがようやく治りかけたと思ったら、今度は花粉症の症状が出てきましてね。さらには腰まで痛くなってしまって……もう踏んだり蹴ったりな状態だったんですけれど、こうして皆さんとお話をしていたら、だんだん元気が出てきました。
受講者C:それは良かったです! 一つお聞きしたかったのですが、老経(スッタニパータ 44)の中で出てきた「蓮の葉の上の水滴」のたとえについてです。(※以下の動画の36分頃)
私が聞いた時の解釈として、「蓮の葉の上にチョコンと乗っている水滴は、その下にある濁った泥沼の水に入り混じらないから清らかなんだ」というようなニュアンスで受け取ったのですが、この捉え方について佐藤さんはどう思われますか?
佐藤:泥沼の汚い水と、葉っぱの上の清らかな水滴という対比ですね。
受講者C:そういう解釈でも合っていますでしょうか?
煩悩は「漏れ出すもの(āsava 漏)」
佐藤:なるほど、そういう解釈もできるかも知れません。ただ、水滴が蓮の葉の上にうまく乗っていれば清らかだけれど、もし強い風が吹いて落っこちてしまったら、下の汚い泥水に混ざってしまいますよね。そう考えると、聖者の心の喩えとしてはどうなのかな、という気もしないではないです。
仏教の伝統的な文脈で言うと、私たちの心に起こる汚れ、いわゆる煩悩は「漏れ出すもの(āsava 漏)」と呼ばれていて、液体に例えられることが多いんです。
ですから、心という「蓮の葉」の上に、ボタボタッと煩悩の象徴としての液体が垂れてきたとしても、蓮の葉が強力な撥水加工のように水を弾いてしまう。つまり「水滴(煩悩)は葉の上に留まらず、スルスルと滑り落ちて葉を濡らすことがない(=心に煩悩が染み付かない)」というイメージのほうがわかりやすいと思うんですけど。
受講者C: 水を弾く『撥水性』のイメージですか……。
佐藤:そうなんです。ただ、パーリ語の原文を見てみても、スッタニパータは偈(詩)なので、前後の修飾関係に曖昧な部分もあって、捉え方によってどちらの意味とも取れるような表現になっている箇所が多いんです。実際、中村元先生も「たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように」と訳していますから。いまおっしゃったように「泥沼の汚い水」と「蓮の葉の上にある清らかな滴」という対比も、イメージとして美しくて、なるほどな、と思いました。
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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