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人は妄想して不幸になる/敵に依存する気持ちは怠け/殺すなかれ(不殺生)に例外は成り立たない・他|スマナサーラ長老との対話

2011年1月31日(月)アルボムッレ・スマナサーラ長老「法話と瞑想の会」@ゴータミー精舎でのメモをもとに起稿しました。

Q:仕事のやりがいを求めて悩んでしまうのは妄想でしょうか?

心は怠け者です。やるぞと思っても、すぐ嫌になってしまうのです。これで人が不幸になります。心の本質(怠け)に戻ってはいけません。

やりがいは長持ちしないものです。自分に言い聞かせ続けなければいけないのです。こんなことで怠けてはアカンと。どんな言葉でもいいですが、適宜に心に言葉をかけて奮い立たせることを続けなければいけません。これは心の性格の問題なのです。

どんなことでも同じことです。ご飯を研いでいる時も止めたくなります。でも、止めたらご飯を食べられなくなります。だからやらなければいけないのです。

Q:ノイローゼ気味で悩んでいます。アドバイスをください。

人間は妄想すると不幸になります。妄想しない人間は幸福に生きるのです。人間は善行為の結果で人間界に生まれてくるのに、妄想のせいで幸福に生きる権利を失ってしまいます。何も妄想せずに『慈悲の瞑想』をやってみてください。

Q:夢に嫌いな人が出てきます。

それは自分が気にしているだけでしょう。夢のことは全く気にしないでください。心が混乱状態で落ち着きのないときに夢になります。自分がどのへんで落ち着きが壊れているか、興奮しているかが分かります。それを理解すればいいだけなのです。

現象ではなく、その現象が心に作った気持ち。それが夢の意味なのです。どうってことないのですから、気にしないでください。慈悲の瞑想をして寝る人は悪夢を観ません。夢を見ても心は汚れます。だから『慈悲の瞑想』をして寝ることです。そうすると夢はほとんど見ないし、ましてや悪夢なんかは観なくなります。

Q:私は生来の怠け者なのですが、「敵」を設定するとものすごく頑張れます。それってダメなことですか?

ダメですね。怠けるというのは心の本質ですから、自分だけ特別怠けているということはあり得ないのです。他人に比較して頑張るというのは、自分の依存症が治りません。敵を作って生きることが不幸なのです。

怠けないんだぞと、自分で自分の心に言ってください。他人は関係ありません。自分を叱ったほうがいいのです。生命は怠け者だと理解すると、怠ける性格も嫌なことではなくごく普通のこととして、適切な対策ができます。恥ずかしくも、敵を作って踏ん張ることでもないのです。

つねに自分を奮い立たせないといけません。他人を使ってはいけないのです。他人と比較する場合は、尊敬できる目上の人、自分を助けてくれる人格者のことを考える事です。そういう人を自分の模範として立てるのは善いことです。ライバルを立てると、ライバルに依存します。それだけで不幸になるのです。

Q:殺生戒はどんな場合も守るべきでしょうか?具体例:庭の松の殺虫や、飼い猫の安楽死など……


殺生戒は人間が考えるとどうしても矛盾にぶつかるのです。これは知った上で釈尊は殺生するなかれと説かれています。自分の頭で考えると矛盾に見えるかも知れませんが、守ってください。殺生は正当化することができないのです。

生命は自分が可愛いのです。自分を可愛いと思うと、「他人は殺せ」という結論になってしまいます。しかし、釈尊はそこで「自分が可愛いなら、他を殺すなかれ」と仰いました。どんな悪いことにも言い訳を作れます。我々の汚れた頭で考えるか、完全なる智慧を開発した釈尊の教えを実践するのか、ということなのです。

人間に考える自由はありますが、考えられるのでしょうか。資格が身につくまで、物事を客観的に思考できる能力が身につくまで、危ないことをしないでください。運転免許を取ってから運転してください。人のクルマに乗るか、電車に乗るのです。

Q:肉食についてはどう考えれば良いでしょうか?

人類が肉食を辞めるとしても、何百年かかるかわかりません。自分がどうするかです。自分が生命を殺さないようにします。スーパーで死体(肉)を売っているなら、食べたければ食べるのです。その程度にするしかありません。

Q:不殺生という戒律に例外なないのでしょうか?

道徳は例外を作ると壊れるのです。例外をつくると、我々はいつも例外を盾にして悪いことをしたがります。道徳・戒律は心の戒め、躾ですから、例外はたてないのです。例外なしに、やめなさいとしないと戒律になりません。とうぜん、守るのは苦しいものです。

苦しいのは心が悪をやりたいからです。やりたいことをしないと苦しいに決まっています。しかし戒律は人を苦しませるためにあるのではありません。人に豊かな安らかな、恐怖感のない、やばいという気持ちから開放される生活を実現するためなのです。戒律を守っている人はすごく気楽で落ち着きます。

る時点まで戒律を守ると、自分の気持ちが「戒律を破ることなんか話にならない」というふうに変わります。「殺生なんかとんでもない、するものか」と無理に守ることもなく、自分の心からその気持ちが出てくるのです。人格が成長しているのです。戒律は初心者には当然厳しいものです。

殺生戒は心の葛藤が無くなるまで続けなければいけません。自分に邪魔な生命は死ね、という理屈は成り立たないのです。

世の中でいちばん簡単なのは死ぬことです。安楽死なんて余計なことしなくても、動物は老衰になると食事をしなくなるのです。でも、人間が側にいて撫でてあげているだけですごく喜びます。どうしても死ぬ動物をなぜ人間の勝手で安楽死させるのでしょうか。それも成り立たない話なのです。

ペットなのですから、死ぬまで見守ってあげる義務があるでしょう。殺していい理由は見つからないのです。

医療行為で寄生虫を殺す場合も、実際は殺生は起きていますが殺意はないのです。ただ患者さんを治さなくちゃと必死になっているだけで。その場合でも、「この体に入った寄生虫をぶち殺さなくちゃ!」という気持ちでいたら殺生罪になります。気持ち次第なのです。

とにかく殺生戒は守ってください。自分の心で考えると矛盾は見えます。しかし、生命は皆生きていきたいと思っています。生かしてあげる人には、生きる権利が生じるのでしょう。生命にやさしい人には、虫たちも邪魔をしないのです。

人間が決めた基準のために、動物たちが死ななきゃいけません。口蹄疫も肉牛の製品基準に合わなくなるからという理由で、かたっぱしから殺します。動物を商品としてしか見ていないのです。インドでは古代から口蹄疫の治療法があります。家畜といっても家族の一員ですから、病気にかかったら治療してあげるのが当然なのです。

殺生の問題でお釈迦様に文句を言ってもしょうがありません。人間がアベコベなことをしているから苦しんでいるのです。結局、「生命に余計なことをするなよ」という釈尊の教えが正しかったことが証明されているだけなのです。

我々はナチスからユダヤ人を匿っていたドイツ人とは違うのですから、戒律(五戒)を守られます。真剣に戒律を守る人は、自分の命が危険になっても戒律を犯さないのです。でも他人の命が危険になる場合は何とか誤魔化します。道徳には力があるから、戒によって自分が守られるのです。

道徳は欠かせないものです。道徳を守らない世界は成り立ちません。道徳を守らないと、みんな死ぬはめになります。だったら、「ちょっと苦しくても道徳を守ってみましょう」というのは良いことでしょう。ちょっとの苦しみで得られる善い結果は膨大なのです。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~


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佐藤哲朗(nāgita) 最後まで読んでくれて感謝です。よろしければ、 ・いいね(スキ) ・twitter等への共有 をお願いします。 記事は全文無料公開していますが、サポートが届くと励みになります。