【読書コラム】ビジネス書の「コミュニケーション」って実際は金を騙し取る方法だけど、純粋に、他者とコミュニケーションを取る目的で「コミュニケーション」が探求された本は意外と初めてなんじゃなかろうか? - 『言語化するための小説思考』小川哲(著)
直木賞作家の小川哲がビジネス書みたいな新書を出して、売れているという話を聞いたとき、ぶっちゃけ胡散臭いと思ってしまった。しかも、タイトルが『言語化するための小説思考』なわけだから、読むとオンラインサロンに誘導されるんだろうなぁって怖さもあった。
洗脳はされたくない……。
そんな風に警戒しつつ、話題という言葉に弱いミーハーなわたしは100%の色眼鏡越しにこれを読むに至った。が、いい意味で期待を裏切られた。
端的に、めちゃくちゃ誠実な本だった。
すべては小説が他者に読まれるためのものであるという当たり前の確認から始まる。
本を読むという行為も、本を書くという行為も、それぞれは孤独な作業。にもかかわらず、誰かが書いているから読めているし、誰かが読んでくれるから書けているし、本質的に両者は相互補完の関係にある。
作者は一人の人間で、作者自身の価値観しか持っていないのに、作品の価値を決めるのは他者である ー という「どうしようもなさ」が、小説を書くこと(もしかしたら創作という営為そのもの)の難しさであり、同時に面白さでもある。
そして、その視点から小説を眺め直したとき、小説はわたしたちの生活に接近してくる。友だちから面白いと思われたいとか、好きな人に素敵と感じてもらいたいとか、職場で頭がいいと言われたいとか、日常のコミュニケーション一般となんら変わりはないのである。
なので、あくまで小説の話をしているはずなのに、自分が普段の会話でうまくいったり、失敗したりしているあれこれのメカニズムが見えてくるので面白かった。
例えば、爆笑必至の鉄板話が鉄板話になり得るのは、それが前提となる人や状況を共有できている仲間内の笑い話だからと分析がなされる。みんなが諸々を知っているため、余計な説明を省くことができる。細かい描写をしなくてもイメージが簡単に想像できる。結果、テンポよく楽しい場面だけがビビッドに共有される。
今、僕は「笑える話」として例を出したのだが、これが「泣ける話」でも「腹が立った話」でもいい。人々の感情を深く揺さぶる話の多くは、現実世界 ー それもひどく内輪な世界 ー の中に潜んでいる。僕たちは知人や友人と雑談するとき、多くの事前情報を共有している。雑談に登場する人物の性格や、業界だけで伝わる専門用語、地元の人しか知らない地名や施設名、お互い釜好きな漫画の内容、同世代なら知っているはずの歌手やグループなど。
従って、小説を書くにあたって、筆者は読者と事前情報をどれだけ共有できているかを想定しておく必要がある。または書き進めながら情報をしっかりと共有していくことが大切になる。
さもなくば、小説は、知らない人の中学時代の面白かった友だちの失敗談を聞かされるような地獄へと化してしまうだろう。なにがなにやらわからないまま、読者は置いてけぼりを喰らってしまう。
そして、そのことから逆算し、普段の会話でも相手がどこまで自分と情報を共有できているか確認することの重要性が見えてくる。
たしかに面白かった出来事を伝えるのって難しいんだよね。一方的に喋って、わたしだけが笑っている場面を思い出すと頭がひゅーっと冷たくなる。たぶん、スベるってあれのこと。挽回しようと自分で笑って、さらに空気が悪くなり、何度もノックアウトされてきた。
てっきり自分にはトーク力がないから無理なんだと諦めていた。でも、上記のように言語化してもらえたことで、なんらかの対策を立てることはできそう。
他にも、アイデアだけでは面白い話にならないというくだりも示唆に富んでいた。
小説とは関係のない仕事をしている人たちがよく「小説にできるアイデアがある」と言ってくるらしいのだけど、小川哲にしてみれば、そんなものは絶対に小説にはならないそうだ。というのも、そういうアイデアは概ね専門性が高過ぎるか、誰にも思いつく陳腐なものが多いようで、多くの読者が求めているものとは異なっているから。
じゃあ、どうすればいいのか。専門性が高過ぎるならわかりやすく加工しなきゃいけないし、陳腐ならそれが斬新に感じられる見せ方の工夫をしなくてはいけない。要するに、アイデアを美味しく料理することが小説家の仕事なのである。
小説にアイデアに必要なのは、いわゆる発想力などではなく、偶然目の前に転がってきたアイデアをしっかりと摘みあげる能力なのではないか、と僕は考えている。一人の人間が机の上で考えることには限界があるけれど、執筆の過程にはさまざまな偶然が待ち受けていて、その偶然を拾いあげれば「一人の人間の脳内』という限界を超えることができる。
これもあらゆる仕事がそうだよね。いまや、ほとんどの仕事は誰だってできるようなことばかり。それでも長く継続していることで習得できる技術があって、それによって付加価値を提供できればプロフェッショナル。きっと、感動ってそういうことなのだ。
そんな風に考えていくと、小説ってとどのつまりはコミュニケーションなのだってことが浮き彫りになってくる。
「コミュニケーション」の手段として、ほとんどの人は「会話」に多くの時間を費やしてきたと思う。情報の圧縮に言語という手段を用いるという点で、以前にも述べたように「文章を書くこと」と「誰かに向かって話をすること」は似ている。あらゆる認知の中から「伝えたい内容」を見つけ、どの情報をどういう順番で配置するか、どういう言葉を選ぶかを考える。相手は何を知っていて何を知らないか、何に興味があって何に興味がないかを考える。そうして、自分の認知を「話」という形式に落としこんでいく。
ここにきて、この本の主眼は「コミュニケーション」にあったのだと確信された。そうなるとビジネス書っぽい装丁の意味合いも変わってくる。
なにせ、ビジネス書のテーマとして、「コミュニケーション」はあまりにも普遍的だから。上司や客に気に入られる方法とか、部下をコントロールするやり方とか、最強の交渉術とか、本屋へ行くとそういう惹句であふれかえっている。
ただ、いずれも他者を自分の思い通りにしようとしているわけで、わたしの目には金を騙し取るテクニックをオブラートに包んでいるようにしか見えなくて、個人的にはすっげえ嫌い。
だから、そういうビジネス書のパロディとして、小説家の小川哲が純粋に他者とコミュニケーションを取る目的で「コミュニケーション」を探求している姿は好感が持てた。
もちろん、小説だって売れれば金になるわけだから、広義で「金を騙し取るテクニック」に含まれるのかもしれない。が、あの文量をわざわざ書き、ヒットするかしないかは常に不明瞭で、業界がシュリンクし続けていることを踏まえれば、金を稼ぐ上で小説って非効率極まりない。
結果論として小川哲は例外的に売れているけれど、たいていの小説は金のために書かれていない。特に、わたしたちみたくnoteで誰に頼まれたわけでもなく、誰に褒められたわけでもなく、せっせっと書き続けている人たちは金儲けなんて夢のまた夢。それでも読んでくれる人が一人でもいるから、あるいは一人でもいるんじゃないかと期待できるから、なんどかんだで書いている。
そうか。小説って、真っ直ぐなコミュニケーションだったのか。ありとあらゆるものが高速化している現代において、これほどゆったりとしたコミュニケーション手段はそうそうあるまい。
何日もかけて書いたものを、いつか、どこかで、何日もかけて読んでもらえるかもしれない。このnoteの記事にしたって、そういう不確定の期待に胸を弾ませて、わたしはスマホでせっせっと3,000文字以上、何時間もかけて記している。それが楽しくて、もう800日以上更新を続けているんだもんね。改めて、ものを書いて発表するってエキサイティング。
従って、『言語化するための小説思考』というタイトルではいるけれど、小説を書いている人も書いていない人も、誰にとっても切実なことが満ち満ちた本だった。すでにnoteで投稿している人はもちろん、これから投稿したいと思っている人にとっても、100%プラスなヒントでいっぱいだった。
これからの時代のクリエイティブ・バイブルと言っても過言ではない。そんな凄い一冊だった。
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