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【映画感想文】ブラジルのアニメが描くニホンジン! 100年前、地球の裏側に渡った日本人が戦争中に経験したこと - 『ニホンジン』監督:セリア・カトゥンダ

 1920年代前半、日本政府は国内の農村不況や人口過剰の対策として、国策としてブラジル移住を打ち出した。コーヒー農園で働けば豊かな生活ができると夢のような話で盛り上げ、渡航費を補助するなど大々的に推し進めた。

 それから100年。現在、日系ブラジル人の若い世代は六世に至っている。が、その歴史が詳しく日本で学ばれることはほとんどない。加えて、当事者も語りたくないことが多くあったのかもしれない。

 農園の労働がいいことばかりじゃなかっただろうし、第二次世界大戦のとき、ラテンアメリカでブラジルだけが欧州戦線に地上部隊を派遣したことを踏まえると、いかに大変だったかは想像に難くない。

 だからこそ、2011年に日系ブラジル人三世のオスカール・ナカザトが書いた『ニホンジン』は衝撃だったはず。ブラジルの文学賞を複数受賞するなど高く評価された。

 そして、そんな『ニホンジン』がアニメ映画となり、ついに日本でも公開された。内容はもちろん、ブラジルで制作されたアニメを見る機会も珍しいので話題を呼んでいる。

 日系ブラジル人三世のノボルは10歳。学校の宿題で自分のルーツを調べてくることになり、頑固なジイチャン・ヒデオに日本からブラジルへ渡ってきたときのことを教えてもらう。

 最初、なかなか話そうとしないジイチャンをめんどくさがるノボルだったが、知らなかった過去がひとつひとつ明かされるうち、次第にのめり込んでいく。特にハルオという会ったことのない叔父さんの存在を聞かされたとき、当たり前だった家族の秘密が気になってしまう。

 このとき、興味深いのはノボルとその友だちの会話。うちは黒人奴隷だったかもしれないとか、ポルトガルから来るとき大変だったらしいとか、それぞれに歴史があるっぽい。でも、いまはブラジル人として一緒に授業を受け、サッカーを楽しみ、ゲームで笑い合っている。

 そんな物語上の現在とジイチャンたちが経験してきた過去の対比から、いかにして人々が困難を乗り越え、いまがあるのか暗に示される。すべてが解決したわけではないからこそ、わざとらしくポジティブな表現をするのではなく、静かな前進を描くスタイルにしたのだろう。

 全編、そういう配慮に満ちていた。文化監修および表現考証で参加された平野恭子によれば、ステレオタイプで誰も傷ついてほしくないという思いがこの仕事の根底にあったという。

この仕事で最初に求められたのは、脚本中の日本や日系人の描写が不自然なものになったり、意図せず誰かを傷つけたりしていないかを確認することでした。異なる文化を題材に物語をつくるとき、人はどうしても自分たちが想像する文化の人々を描きがちです。そしてその想像は、しばしばステレオタイプに近づいてしまいます。

日本とブラジルの間には 100年以上の人的・文化的なつながりがあるにもかかわらず、日本や日系人に関するコンテンツでは、ステレオタイプを繰り返してしまう表現がいまも少なくありません。そのたびに日系人が静かに傷ついたり、諦めたりする姿を見てきました。

公式パンフレットより

 おそらく、この思いには誰もが同意するけれど、実際にやるとなるとめちゃくちゃ大変。なにせ、フィクションの登場人物は本質的にステレオタイプを孕んでいるし、作劇場の都合で言動が決まることも多々ある。さらにはone of them、つまり、様々な人たちがいた内の一人となるので、どうしたって過不足が出てきてしまう。

 苦労したエピソードとして、戦前の日本人男性の口数が挙げられていた。

本を読んで最初に強く感じたのは、登場人物が自分の価値観や感情を、とても明確に言語化していることでした。映画として観客に伝える必要がある一方で、戦前から戦後にかけての価値観を持つ日本人男性、とりわけ家父長的な人物が、家族に対してそこまで整理された言葉で説明的に話すだろうか、という違和感がありました。

これは単に「日本人は寡黙」という話ではありません。ブラジルで生まれ育った日系二世・三世、つまり移民の子や孫の世代は、親の沈黙や厳しさを理解しきれない。一方で親の側も、自分の苦労や価値観を言葉にして説明する習慣を持っていない。その距離こそがこの物語の重要な部分だと感じ、表現の修正をお願いしました。

同上

 たしかにそうだよね。「男は黙ってサッポロビール」のキャッチコピーが流行ったのは1970年のこと。その50年前と考えれば、頑固なジイチャンが饒舌というのは違和感がある。

 そして、この指摘から脚本は修正され、結果的に世代間ギャップの象徴として機能したというのは面白い。物語というのはきっと、そうやって知見が集まることによって個人を超えた人類の記憶として共有可能なものになるのかもしれない。

 さもなくば、作り手の都合で暴走し、せっかくの作品がフェイク情報を広める羽目に陥る恐れは十分にある。信じたいものだけを信じ、都合の悪い事実を無視してしまったら、断絶は深まるばかりだ。

 終戦前後のブラジルでも、日系人たちはなにが本当かわからない状況で互いに憎しみ合ったという。ガイジンの報道は信用ならないと、日本の勝利を信じて疑わない人たちは「勝ち組」と呼ばれ、日本の負けを受け入れる「負け組」に危害を加えた。お前らは国賊だと怒りを抑えられなかった。こんな悲しいことがあったなんて、恥ずかしながら、わたしはこの映画を見るまで知らなかった。

 この「勝ち組」と「負け組」という言葉を巡っても時代考証が行われている。

ここでいう「勝ち組」「負け組」は、現在の日本語で使われる成功・失敗の意味ではありません。戦後、日本の敗戦を信じなかった人々と、敗戦を受け入れた人々を指す、ブラジル日系社会特有の歴史的な言葉です。

当初の脚本では、ヒデオはより明確に勝ち組の立場を取る人物として描かれていました。しかし当時の状況を調べていくと、そこには単純な思想の対立だけではなく、戦時中の情報統制や移民社会の孤立、戦後の混乱の中で情報が錯綜し、何が事実なのか判断すること自体が非常に難しかった現実が見えてきました。こうした背景を踏まえ、ヒデオが勝ち組に身を置きながらも、ノボルに対して「何が本当かわからなかった」と語る余地を持たせる方が、人物としても歴史としてもリアリティがあるのではないか、と提案しました。

同上

 この変更が秀逸だった。過去の話を見ていたはずが、気づけば、わたしたちが生きる現代とシームレスに接続されていく。

 政治家が広告代理店に大金を渡し、SNSやテレビで自分をよく魅せるための広告を流すだけでなく、相手陣営の誹謗中傷を平気で行う世の中で、いったい、なにが信じられようか。政府の言動にネガティブなことを言えば、支持者なのか雇われた人たちなのか、よくわからない匿名アカウントから罵詈雑言が飛んでくる。同時に、その逆も然りで、野党の議員も批判されるとすぐに名誉毀損で訴えると大騒ぎする。もはや、どの党に投票しても、誰に投票しても、自分の本心とは異なってしまう。

 時代も背景も違っているのに、国家の信頼が揺らぎ、身近な人たちで支え合っていくしかないという点において、日本人とニホンジンはつながり得る。

 あれから100年。地球のこちらとあちら、表と裏は文化という領域で溶け合っていく。戦争はしたくない。絶対に戦争しない。




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