【読書コラム】二十世紀の勢いよく無責任なスローガンが力を失いつつある頃に生まれてしまったのを、こちらにどうしろというのだろう - 『私たちのテラスで、終わりを迎えようとする世界に乾杯』チョン・セラン(著),すんみ(訳)
チョン・セランのショートショート集『私たちのテラスで、終わりを迎えようとする世界に乾杯』の翻訳が発売された。
友だちに教えてもらって、早速買って読んだのだけど、まさに同時代を生きている! って感じのテーマが詰まりまくっていて、いま読む意味がひしひしと伝わってきた。例えば、労働環境における根強く残る女性差別だったり、性加害だったり、政治の失敗による世代間の経済格差だったり。舞台の多くは韓国だけど、日本人も共感できる話題でいっぱいだ。
そんな風に言うと暗い小説なのかなぁと思われるかもしれないが、チョン・セランという作家の特徴はそれらを明るく乗り越えていくスタイルにあり、どの作品も読み心地が爽やかなので気持ちがいい。
個人的に好きだったのは『アラの小説 1』という6頁ほどの掌編で、作者自身が反映されていると思しきアラという小説家が主人公。彼女は担当編集者から恋愛小説を書いてほしいと頼まれるが、どうも乗り気になれない。
というのも、現実世界で女性が三日に一人殺されていると知り(なお、2024年11月25日の国連発表によれば、女性や女児が10分間に1人、パートナーまたは家族に殺されているらしい)、盗撮サイトを利用者数の膨大さを知り、その一方で、甘くて素敵な恋愛を描くことに空虚さを感じているのである。
物語が社会に影響を与えると同時に、社会も物語に影響を与え、ついに物語と社会の二つが双方向の矢印になる。その責任から目を背けてはならない。アラはこの社会が、恋愛小説の足場を揺るがすほどまで不気味にねじれてしまったことを嘆いた。
たしかに、目の前に困っている人がいるにもかかわらず、それを無視したフィクションを構築し、「愛は素晴らしい」みたいなことを言って、なんの意味があるのか。甚だ疑わしい。
なるほど、それによって救われる人もいるかもしれない。いるかもしれないが、問題自体は残り続けるわけで、その救いは幻想のようなものである。もちろん、受け手の論理で言えば、幻想が必要なときもある。しかし、その必要性は幻想でお金を稼ぐ行為の肯定にはつながらない。現状に異議を唱えないという点で、書き手としては不誠実。恋愛小説に躊躇いを覚えるのは自然なことである。
ただ、それでもアラは筆を折ったりはしない。上手にやれることをやろうと作戦を練り始める。具体的には愛情のように見えて、愛情ではないことについて書こうと決意する。そうすれば、現代の小説家による恋愛小説として責任を果たせるのではないかと果敢に挑んでいく。このチャレンジ精神に読者としての我々は救われるのだ。
他にも、『アラの小説 2』という続編では、女性作家であることのハンデについて述べられる。名前で女性と認識されると舐められるとか、年齢による偏見で損しているとか。
ネットポータルから生年月日は削除したほうがいいかどうかを少しばかり悩んだことがある。不思議なことだ。男性作家は中年になるにつれて権威を得るのに、女性作家は「鋭さを失って、おばさん小説を書く」と評価を下げられてしまう。
だいたい、「女性作家」というくくり自体がおかしいよね。男性の作家に対して、「男性作家」なんて言い方しないもの。「旅行作家」や「歴史作家」みたいなジャンルでわかるならわかるけど、その並びに「女性」を置くのは乱暴だ。
とはいえ、「女性作家」が女性として見られているのも本当で、そんな不満を抱えていたアラは先輩「男性作家」から性被害を受けてしまう。
相手はベテラン。ファンも多く、業界内の地位も高い。訴えたところで巧みに反論し、揉み消されてしまうのがオチだろう。最初、アラは泣き寝入りを考える。
でも、仲のいい女性作家に支えられ、他の女性作家たちを守るためにも、勇気を出してSNSで告発する。これを受け、他の被害者たちも次々と声を上げるようになる。こうなってみると「女性作家」というくくりが頼もしく感じられてくる。
自らが望んだレッテルではないけれど、気持ち次第で、それを武器に変えることができるかもしれない。チョン・セランの小説にはそんな生存戦略が散りばめられている。そして、それは二十一世紀という先行きが不透明な時代を生きなくてはいけない我々に響きまくる。
『アラの傘』という作品の中にこんな一節が出てくる。
無限に成長しつづける時代が終わってしまったことだけは、ハッキリとわかる。何もかもこのままは続かないだろう。上の世代が誤解しているように、なんとなく敗北主義に陥っているわけではない。ただ事実が指し示しているところを淡々と見つめているだけ。騙されないようにと。騙してこようとするすべての試みを阿呆らしいと思いながら。この小さな惑星で何かが無限に成長すると主張していたなんて。そんなことを昔はよくも信じられたと思う。二十世紀の勢いよく無責任なスローガンが力を失いつつある頃に生まれてしまったのを、こちらにどうしろというのだろう。
1997年のIMF危機(アジア通貨危機)によって、1980〜1990年代に生まれた韓国のミレニアル世代の未来は失われてしまった。日本で言えば、バブル崩壊後の就職氷河期世代(1970〜1980年代生まれ)と重なってくる。
端的に言えば、上の世代の失敗で仕事がなくなったにもかかわらず、すでに働いている人たちの生活維持が優先され、これから就職という若者たちが犠牲になった。なのに、社会では自己責任論が蔓延するなど、不遇な若者たちを誰も助けようとはしてこなかった。おじさんのおじさんによるおじさんのための政治が性懲りもなく続いてきた。
毎年うんざりするくらい時代遅れな出来事が起こるのだが、それを改善できる側にいる人たちは、改善する意志があまりなさそうだ。
なのに、恵まれてきたおじさんが最近の若者はやる気がないとダメ出ししたりするんだもの。堪ったもんじゃないよ。「俺たちの頃はもっと会社のために尽くしたもんだぞ」って、本気で仰ってますか?
そりゃ、あんたの時代はよかったよね。だって、終身雇用だったし、年功序列で給料は上がっていたし、外回りの合間にパチンコで遊ぶ人もいたし、専業主婦の奥さんに家のことはぜんぶやってもらえたし、子どもを大学卒業まで面倒見なくてもなんとかなったんだもんね。でもね、いまはそういう時代じゃないの。勝手にしやがれ!
人生の質を犠牲にして得るものがなければ、自分を燃料がわりにして燃やそうと思えないだろう。
結局のところ、車を買わず、マイホームを買わず、結婚をせず、子どもを産まず、自分が生き延びることに精一杯やらざるを得なかったんですよ! ただ、そんなミレニアル世代にも、就職氷河期世代にも、生きていてよかったと思える瞬間はあるわけで、チョン・セランは小説家としてそのキラメキを見事に捉え、下の世代に示そうとしているところがカッコいい。まるで、「人生は捨てたもんじゃないよ」と言っているかのようだ。
訳者のすんみさんも、あとがきでそのようなことを書いていた。
気候変動、女性差別、就職難、性犯罪、自然災害など、チョン・セランの目に映る社会は、けっして生きやすい場所ではない。しかし、著者がペシミズムに陥ることはない。なぜなら、この厳しい時代を生き抜こうとする人たちのたくましさを信じているから。次にやってくる人たちの可能性を信じているから。
そうそう! そうなんだよね! だから、チョン・セランの小説は絶望的なのに明るくて、読むと元気が湧いてくるんだよね!
初めて、わたしがチョン・セランの凄さを知ったのは『フィフティ・ピープル』という同じ街に暮らす50人を主人公にした50個の短編小説集を読んだときだった。
ここに出てくる50人は基本的には他人同士で、なんらかのつながりがあるケースもあるけれど、それぞれ満たされないものを抱えながら日々を送っている。ところが、最後、ある事件を通して絆が作られていく。
意図せぬ連携。それが生きる上で強い力になるという予感。これは世界的に分断が広がる現代社会にとって、重要なキーワードになるんじゃないかと心を打たれた。
考えてみれば、ほとんどのつながりって、意図せぬところから始まる気がする。女性作家もそう。ミレニアル世代も、就職氷河期世代もそう。当事者の誰も自分でそんな風に名乗ってはいない。第三者が勝手に名付けているだけだ。
でも、逆説的に、そう名付けられたことで我々は横につながっていけるのかもしれない。負のベクトルが組み合わせって、世の中を正すエネルギーが生まれるのなら、それを活用しない手はないだろう。
たぶん、チョン・セランの小説はゆるく社会をいい方向に動かしていく。少なくとも、わたしは本気でそうなることを期待している。
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