支援する側から支援される側へ。見えてしまったこと
支援する側から、支援される側へ。
この立場の逆転を経験する人は、そう多くない。
障がい者雇用枠で働き始めて、しばらく経った。
正直に言うと、思っていたものと違った、とは言い切れない。
むしろ、うっすらと予感していた通りだった、というほうが近い。
そして実際に現場に立ってみると、求められるのは「一般レベル」だった。
特別扱いはされない。むしろ「普通にできて当たり前」という空気の中で、淡々と業務をこなす日々。
予感は、当たっていた
障がい者雇用枠、という言葉には、どこか「守られている」というニュアンスがある。
一般的には、そう思われることが多いのかもしれない。
でも私は、入社前から、なんとなく違う予感がしていた。
面接や説明を受けている段階の雰囲気で、「ここは、配慮を求めるのが難しそうだな」と感じていた。
根拠と呼べるほどのものはなかったけれど、長年この業界にいると、そういう空気は肌で分かってしまう。
そして、その予感は当たっていた。
枠は「雇用形態」であって、「業務レベルを下げる保証」ではない。
これは、当事者になって初めて、はっきりと理解したことだった。
一般雇用と変わらない水準を求められたとき、最初に湧いたのは戸惑いというより、「やっぱりそうか」という納得だった。
それでも、納得しているだけでは済まされない自問が、そのあとに続いた。
「配慮してもらえないのは、自分の頑張りが足りないから?」
「枠を使っているのに、枠の意味を果たせていないのでは?」
自分を責めそうになる瞬間が、正直あった。
でも、これは断言しておきたい。
それは、あなたのせいではない。
葛藤がないと言えば、嘘になる
正直に言うと、この状況に葛藤がないと言えば嘘になる。
私はこれまでずっと、正社員として働いてきた。
それだけでなく、障がい者雇用のマネジメントをする側にもいた。
だから、朝礼で使われる少し難しい文言も、意味も背景も、だいたい理解できてしまう。
でも、知らないふりをしている。
なぜそうしているのか、自分でもまだ、はっきりとは言葉にできない。
ただ、ふと思う瞬間がある。
「できる」と思われることと、「期待されていない」でいること。
どちらが自分にとって楽なのか。
支援する側にいたときの私は、「できるようにする」タイプの支援はしていなかった。
どちらかというと、その人の得意なところを見つけて、伸ばすタイプだった。
まずそこで自信を持ってもらう。
苦手なことは、その自信がついてから、一緒に取り組んでいた。
もちろん、スモールステップで、分かりやすく。
その人に合わせて一緒について、理解できるまで見本を見せたり、一緒にやってみたりする。
そうやって、その人のペースで少しずつ前に進んでもらうことを大事にしていた。
でも、いざ自分が当事者になってみると、「できる」と思われることには、別の重みがあるのだと知った。
できると思われれば、一般レベルを求められる。
期待されていなければ、多少できなくても許される。
正直、「できない」と思われているほうが、精神的には楽に働ける。
気を張らずに済むし、多少のミスも大目に見てもらえる。
でも、できてしまうこともある。
体が覚えていることや、染みついた感覚は、そう簡単には消えない。
そういうとき、少し早く動いただけで「焦ってる」と言われることがある。
自分の中では、焦っているつもりはまったくない。
ただ、いつも通りに動いているだけなのに。
「焦ってる」という言葉と、自分の実感の間にあるズレに、なんだかもやっとした気持ちになる自分がいる。
その両方を経験してみて分かったのは、これは怠けたい気持ちとは違う、ということだ。
正社員だった頃の自分と、今の自分の間で、まだ折り合いがついていないだけなのかもしれない。
「知らないふり」は、もしかしたら、その折り合いをつけるための、今の私なりのやり方なのだと思う。
配慮が「ない」のではなく、「合っていない」
誤解のないように言っておきたいのだが、会社が何も配慮していない、というわけではない。
おそらく会社なりに、配慮の制度は用意しているのだと思う。
でも、その配慮が、私に必要なものとは限らない。
用意されている配慮と、実際に必要としている配慮がズレている。
このズレに気づいたとき、正直、複雑な気持ちになった。
「配慮してもらえていないわけではないのに、なぜかしっくりこない」
この感覚を持て余しながら、ふと思った。
これは、障がい者雇用がまだ十分に進んでいない会社に、よくある典型的な形なのではないか、と。
元ジョブコーチとして、あえて言えること
私はこれまで、企業在籍型ジョブコーチとして、当事者と企業の間に立ってきた。
数多くの方の就労を支え、高い定着率を、現場で積み上げてきた。
その経験から言えるのは、配慮というのは「用意すればいい」ものではなく、「その人に合わせて設計されて、初めて機能する」ものだということ。
障がい者雇用が進んでいる企業ほど、配慮は「制度」ではなく「対話」から生まれる。
本人の特性をヒアリングし、業務内容とすり合わせ、必要であれば調整し続ける。配慮とは本来、一度用意して終わりのものではなく、動き続けるプロセスのはずだ。
一方で、配慮がまだ「型」として用意されているだけの会社もある。
「障がい者雇用枠だから、この配慮を渡しておけば大丈夫」という、パッケージ化された対応。
善意ではあっても、個別最適化まで至っていない。
一般レベルを求められること自体が、必ずしも問題なのではない。
問題は、その水準を求めるなら、それに見合う「個別の対話」がセットになっているかどうかだ。
用意された配慮と、本人が必要としている配慮がズレたまま放置されているとしたら、それは制度が「まだ発展途上にある」というサインなのだと思う。
支援する側にいたときは、この構造が当たり前に見えていた。
でも当事者側に立つと、同じ構造がまったく違う重さで迫ってくる。
分かっているつもりだったことが、こんなにも違って見えるのだと、今になって痛感している。
見えてしまうことの、しんどさ
正直に言うと、今の現場は、障がい者雇用というものが何なのか、まだよく分かっていないのだろうな、と感じることが多い。
ジョブコーチという存在についても、おそらく知られていない。
法定雇用率を満たすこと自体が、悪いわけではない。
むしろ、それがきっかけで雇用が生まれるのなら、意味のあることだと思う。
ただ、法定雇用率だけを追いかけていて、「雇ったあと、どう定着させるか」までは設計されていない。
そういう現場は、実はめずらしくない。これは、どこか特定の会社の問題というより、よくあるパターンなのだと思う。
そして、私はどうしても、ジョブコーチの視点でその現場を見てしまう。
「このやり方だと、たぶんこの先、定着は難しいだろうな」
「このやり方を障がい者雇用にそのまま当てはめるのは、危ういな」
見えてしまう。考えないようにしていても、見えてしまう。
これが、地味にしんどい。
一般的な新人であれば気づかないようなことに、いちいち気づいてしまう。
気づいたところで、今の私にそれを変える立場はない。ただの一従業員として、黙って見ているしかない。
分かっているのに、言えない。見えているのに、動けない。
このギャップに、静かに消耗していることに、今、気づいている。
もし同じように、専門性や経験があるせいで、人より多くのことが見えてしまってしんどい、という人がいたら。
それは、あなたの感覚がおかしいからではない。見える力があるからこそ、しんどいのだと思う。
同じ立場で悩んでいる人へ
もし今、「配慮してもらっているはずなのに、しっくりこない」と感じているなら。
それは、あなたのわがままでも、感謝が足りないからでもない。
用意された配慮と、あなたに必要な配慮が、ただズレているだけかもしれない。
その違和感を持つこと自体が、あなたが自分の状態を正しく見つめている証拠だと思う。
私自身、まだこの葛藤の途中にいる。
答えが出たわけではない。
それでも、この違和感を「なかったこと」にせず、言葉にして残しておくことに、意味があると思っている。
それでも、この仕事は好きだ。だから、これからも続けていくと思う。
ただ、この不思議な感覚は、きっとこの先も残り続けるのだろうな、とも思っている。
苗は、必ず育つ。
今はまだ、根を張っている途中なのかもしれない。
