子どもの頃から見えないルールを探し続けたINTJの話
タイトルのとおり。私の話です。
いつにも増して自分語り強めです。まぁエッセイですし……
テレビを見ない子どもが感じていた会話の違和感
子ども時代、自分は周りの人に比べて物事を知らない人間だった。
何しろテレビを見ない。本も、ほぼ魚の本しか読まない。塾にも行っていない。
インターネットなど一般家庭にない時代、情報を得るならテレビ、ラジオそして本だった。それらのコンテンツを、同世代の人と何一つとして共有していなかった。
よって語彙力が周りとかなり違う。
そして持ち前の聴覚過敏気味な特性や過集中により、言葉を聞いた瞬間にその言葉を理解する力も弱かった。
当然、会話にも支障が生じる。
例えば大人に見放されたら子どもは死ぬという恐怖心で先生の言うことを素直に聞いていた頃、クラスメートから「外角さんは先生に贔屓されてるよね」と言われた。
えと、「ヒイキ」ってなんだ・・・?
もしかしてテレビでやってたのかな?だったら分からないなぁ……
(この頃の私は知らない言葉があると全部テレビでの固有名詞だと思い込んでいた。)
でもテレビを見ないのは私の都合だし、そんなことでいちいち話の腰を折るのも申し訳ない。それに、話しているうちにどういう意味か分かるかも。
なので、その場で「ヒイキって何?」と聞くこともなく「えーそうかなー」と適当な返事をしていた。
そして話が終わるころになり、どうやらいい意味で使わないらしいということ、「私」はヒイキをされている側なのに「私」に原因があるようなニュアンスがある、ということが分かった。
ほう、私が悪いのか……。
え、それを私に対して言うってことは、糾弾してるってこと?
本当は私にどういうリアクションをしてほしかったんだ……?
気になったがしかしそれ以上追及されなかったので、それで流しておいた。
というように、文脈を読むINTJの性質がさり気なく既に現れているというわけだ。
そしてこういうことがいろんな場面であった。
このような会話の経験を積み、そのうち「名前だけは聞いたことあるよ」という魔法の言葉を思いついた。
これにより知らないことも、違和感をもたれずに会話に参加できるようになったのである。
知ったかぶりを許さないINTJとは思えない暴挙である。
絶妙に嘘ではないというところが、我ながら姑息さを感じる(自画自賛)。
でもこの頃はとにかく、周りに溶け込んで自然に過ごすことが目標だった。
普通の人間になるように、人に好かれるように、会話も滑らかスムーズにできるように。
今でも滑らかに生きていきたいという思いのもと過ごしているが、子どもの頃は何分あらゆる分野での知識が無さ過ぎる。滑らかに生きるにはハードルが高いのである。
なのでそういうライフハックというか寧ろ邪道スキル的なものも身に着けていった。
このころから「こう聞かれたらこう答える」的な仕組み化を進めていたことになる。結局なんだかんだINTJなのである。
人間関係まで構造で片づけようとするなんて、横着なやつめ。
好かれる人間=正しい人間という仮説
そしてもう一つ、致命的な欠陥があった。
それはもう、人の気持ちがわからない人間だったのである。
なんだか私のコミュニケーションはあか抜けない。
なぜか。
周りを見てみると、相手への共感の仕方とか、気遣いとか、そういった人への感度が高い人が多い。
特に女子。みんなコミュニケーションがうまいなぁと思った記憶がある。
私の向上心の高さゆえ(?)、高みを目指すならテッペンを、というのは子どもの頃の密かなスローガンだった(自然じゃないじゃないか、というツッコミは受け付けない。テッペンに到達してこそ自然に過ごせると思い込んでいたのである)。
例えば、人から好かれること。
クラスの人気者を見てみよう。その巧みなコミュニケーション能力で人の注目を集め、そして多くの人に好かれている。
そうだ。私も、あのようにならねばならない。
そして上手なコミュニケーションができる女子は、周りからの好感度を着実に上げている。
ところが、一方の私は笑顔が笑ってないし、気の遣い方が分からない。愛想も愛嬌も持っていない。
だから人から好かれないのだろう。これは人として終わってる。
人として始まるにはなんとしても周りの人から好かれる人間にならなければならない。
そう意識が変わっていった。
つまり人から好かれる人は、人として素晴らしい。
それは正しい道を歩んでいるからだろう。
そういう推測をしていた。
そのため、人から好かれるような人から言われたことは、理屈はよくわからなくても「こういう、人が絡むときで何か言われるのって大抵私が何かやらかした時だよな。言うこと聞いておこう」ととりあえず取り込むようにしていた。
しかし何故そこまでして人から好かれなければならないと思ったのかというと、それは生存戦略である。
当時は人に好かれたい、のではなく、好かれなければならないと思い込んでいた。
なぜか。周りの人が、人から好かれたがっていたから、自分もそうしなければならないのだと思っていたのだ。
これは一見承認欲求とも取れるが、そうではなく外部に根拠を求めるTeが機能していたと言える。
答えは自分の中にはない。外の世界にあるもの。
その頃の私の世界は狭い狭い学校の中だけだった。ということは、学校での人の言う事やる事は最大限参照すべき、という考えだ。
つまり結構謙虚なヤツだったんだね、自分(自画自賛)。
「私が人を傷つけるのは絶対NG」という不均衡な法則
そうやって学校生活を送っているうちに、気づいたことがある。
クラスメートは、それって言っていいの?というようなことを平気で言う。
「自分がされて嫌なことは、人にしてはいけません」
このように学校で言われる人も多いはず。
私も結構忠実にこれを守っていた。
だがクラスメートたちは、これに反するようなことを言っている。
それで何か悪いことが起きるかといったら、そうでもなく、寧ろ盛り上がっている。
根暗陰キャだった私としてはその力学が不思議でたまらなかった。
もしかして、この人たちは嫌なことをされても平気だから、人に嫌なことをするのか?
それか、私が勝手に嫌だろうなと思ってるだけで、実際はみんな嬉しいのか?
と。そう推測した。
あるとき、たまたま私が何かこれはちょっとマズいか?と思いつつ、「いや他の人だって、人が嫌がりそうなことを人に言って盛り上がってたし、それに比べれば些細なことだ。大丈夫だろう」ということを人に対して行ったら、何故か怒られたり、白けたりした。
え、貴方たちもっとひどいことやってなかった?
これはダメでそれがスルーされるの、なんで?
これは本当に、分からなかった。
何故だ。
理由が分からないと、次からの行動に移せない。なんとかして、メカニズムを解明せねば。
ここで「いやそっちもやってるし、人のこと言えないっしょ!」となれば話は早かったのだが、残念ながらそうはならなかった。
いや、ここで一方的に相手を責めるほどの根拠はない。私の知らないルールがあるのかも。だったら、それを知らない私が悪い。と仮定する方に向かったわけだ。
そしてその流れで、私の中でひとつの法則を編み出した。
「人が私を傷つけるのはOKだが、私が人を傷つけるのは絶対NG」
これだ。この法則しかない。
これで私の身に降りかかる全ての現象が説明できるぞ!
一応、仮説の立て方としては結構正しいと自負している。
事象の観察や検証をしたところ、中身で見るとあちこちで矛盾が生じる。
しかし、一つだけ共通点がある。
それは、私が絡んでいるとき。
私が行為者になるときは、悪い結果になる。
しかし私が受動者になるときは、特に何も起きない。
つまり……と、条件に合うように仮説を立てる。
すると、この法則しか当てはまるものはないのである。
仮説どころか本説でもよかろう(自画自賛)。
盲点を力技で補完した機能的コミュニケーション
その後しばらく結構嫌な目に遭ったのだが、実際に高校生以降は特に不都合なくなった。
寧ろ、この法則があるから、自分が何かちょっと嫌な目に遭ったとしてもすぐさま相手を責める前に、
「この人がこんな行動を取るのは何か事情があるのかもしれない」
「自分の行動が何か気に食わなくて、その人がそういう行動に出たのかもしれない」
「私がいいと思うことも相手にとってはそうでもない可能性がある」
等と、相手の状況を考えてみるという癖がついたのである。
要は相手が原因だとどうしようもないことが多いが、自分に原因を持ってくるといくらでも改善策は浮かぶのである。
それにより、すぐには分からなくても時間が経つと相手の意図が分かることもある。そしてそういった行動パターンを徐々に知識として蓄積していった。
ここから発展させて、例えば「こういう聞き方をすると相手が不快な思いをして、情報を得られない。」といった知識に基づき、「ではどのように質問をすればいいか。」と、最適な手段としてのコミュ力を推論から習得していく。
このように考えることで、相手の気持ちにも寄り添えるし、情報収集という目的達成も効率的にできる。
また、それどころか、メタ認知の使い方も自然にできることになる。
世界を壊さず滑らかに、必要なコミュニケーションができるようになっていったのである。
そして私が目指していたはずの、周りの人と同調するようなコミュニケーションの取り方をする人よりも、機能的に振ったものとなった。
個人的にはこちらのほうが大分使い勝手が良いと思っている。
基は全ての心理的負荷を自分に負わせるという、責任のコペルニクス的転回を行ったわけだが、これが結構自分の中では都合がよかった。
まぁ冷静に考えればんなわけあるかい、という法則なのだが。
しかしこの先の人生の中で殊の外うまく回ってしまったので、その後長い間この法則を信じることになるのであった。
そして成長するにつれ、別に人から好かれなくてもそんな支障なくない?と気づくという。これにより、案外人の言う事も全くもって正しいとは言い切れないということも判明してしまった。
どうやら自分の知識やら何やらが世間様に追いついたようだ。あばよ、世間の常識とやらよ。
そこからは人類全員から好かれようなどという無駄な努力もしなくなり、結果、悩みも格段に減った。
先ほどの法則と合わせると、実に軽やかに生きることができるのだ(自画自賛)。
見えないルールを探し続けてきたINTJ
というわけで何か起きると「相手が悪い」とはすぐ思わず、「理由があるはず、法則があるはず」と見えないルールの存在を前提にするという考え方が子どもの頃からあった。
そのために、「ぜんぶ自分が悪い」というアクロバティックな考案もしてしまったわけだが。
それらすべてひっくるめて、INTJの特徴かもしれない。
世の中を理解するために、人間を理解する。
人間を理解するために感情にまつわる暗黙知ではなく、モデルケースとして抽象的に捉えようとした、ということだ。
うーん、遠回り過ぎる!
心理機能的に言えば、Fe盲点の私が力技でNiによる推論とTeによる周りの事実からの判断を行うことで擬似的表面的にFeを作り出し、周りに調和しようとした。
それどころか機能的なコミュニケーションという意味で言えばFeの表面的な特徴をはるかに超えるほどの精巧さに到達した、と。
情緒の交換には相変わらず不向きだが、便利なのでまぁいいかというところだ。
やはり遠回り過ぎるが、得意なもので苦手をカバーするにはこれしかなかったのだろう。
それは確かに、子供の行う推論としてはなかなかトリッキーでオトナ受けの悪いやり方だったかもそれない。
だが「あの人って嫌な人」とすぐさま決めつけない習慣が身につき、人の様々な可能性を見ようとする癖がついた。
これにより、少なくとも一つの印象から人格を推測して好き嫌いを決める人よりは、攻撃性も抑えられて、且つストレスも少ないと思っている。
何よりまず推測することから始めるので、初手で相手を攻撃することがほとんどないのである。相手を攻撃しなければ、不必要に攻撃を受けることもないし、自爆もない。そういう力学である。
このように、見えない理由を見ようとして望遠鏡を覗き込んだ的なINTJは私の他にも、もしかしたら沢山いるかもしれない。
この身に降りかかる一見理不尽な出来事の理由を、人間の言動の仕組みを、なんなら世界を動かしている力を見ようとして、解き明かそうとして。
けど本当に必要なのは目の前の人間が実際どう思っているかを捉えることですけどね。
では望遠鏡ではなくて顕微鏡ですね、と極端なことを考えそうなINTJではある。眼鏡で十分、とはならないのがなぁ。
