人間関係のトビラを開く鍵
育った環境に、思いやり、が無かったなら其の人は、
他者の思いやりが解らない人に育ちますし、
他者を思いやることが出来ない人になります。
思いやりに触れたことが無いのですから無理も無いのです。
日本に生まれた人は、特に勉強しなくてもいつの間にか日本語を話す様になります。
アメリカに生まれたのなら英語を、
フランスに生まれればフランス語を、いつの間にか自然に理解し、話す様になります。
生まれた環境に母国語は溢れているのですから、そうなります。
思いやり、についても、言語、と同じで、
生まれ育つ環境に当たり前に有って、
当たり前に触れる体験を重ねたなら、
いちいち、思いやりとは?、と考えなくても、
他人の思いやりは解る様になりますし、
他人を思いやることも出来る様になります。
生まれ育った環境、と言いましたが、
幼い子どもにとって環境とは、
ほぼ親子関係と言って差し支えありません。
親子関係は圧倒的に優位な、親、と徹底的に無力な、子、によって構成されるのですから、
思いやりある親子関係なのか、ということは、
親の心に思いやりが有るか否かに由る、と言えます。
いつも記事の中で、
子どもの心の問題の原因は親の心にこそある、とお伝えしている由縁です。
思いやりが欠けている親ほど、言葉によって親子関係を、あたたかなものであるかの様に、装飾、しがちです。
お前の為を思って…、
あなたのことが心配で…、
親子だから…、
おそらく親は、無意識の領域、では、自分に思いやりが欠けていることを知っています。
けれども表層の、意識の領域、では自分を、
子ども思いで、
自分よりも子どもを優先する、
愛情溢れる親だと信じ込んでいます。
無意識では自分の愛情を疑いながら、意識では自分の愛情を信じ込むという、自己矛盾に苦しむ親は、
苦しみを覆い隠す為に、言葉を使って装飾します。
親の自己矛盾を内包した、愛情もどき、とも言える感情の揺らぎに晒されて育った子どもは、思いやり、が解らない人に育ちます。
たとえば友人が良かれと思って何かを手伝ってくれたけれども、結果が芳しく無かったとします。
思いやりを知っている人であれば、友人が良かれと思って手伝ってくれたことに先ず感謝します。
確かに結果は芳しく無かったかも知れませんが、わざわざ手伝ってくれた友人の思いやりに、あたたかなものを感じ取ります。
思いやりが解らない人は、友人が良かれと思って手伝ってくれた其のあたたかな思いやりには注意が向きません。
芳しく無かった結果だけが気になります。
感謝の念は湧かない訳です。
場合によっては芳しく無かった結果について文句さえ言うのです。
他者の思いやりを感じ取れること、他者を思いやること、は、
長期に渡る安定的な人間関係を構築する上で、欠くことの出来ないものだと私は思っています。
心理学者アルフレッド・アドラーは、人の悩みは全て人間関係である、と言い切ります。
その意味に於いて、思いやり、は人生のステージの扉を開ける鍵でさえある様に思うのです。
乳児期から幼少期にかけて親の、思いやり、を感じ取りながら育った子は、その小さな手のひらに、親からもらった、思いやりの鍵、を握り締め、少年期というステージの扉の前に立ちます。
思いやりの鍵、を使って扉を開いたら、これまでとは別世界のステージが拡がります。
これまでは、親子関係が世界の全てでしたが、開いた扉を抜けて少年期のステージに入ったら、
そこには大勢の友達が居ます。
先生も居ます。
少し不安にもなりますが大丈夫です。
その子は、思いやり、が解るし、
出逢う他者を思いやることも出来ます。
親からもらった、思いやりの鍵、を頼りに人間関係を構築しながら、先へ進みます。
少年期を歩き切ったら今度は、青年期の扉を開きます。
鍵を使って扉を開けたら、少年期とはまた違った人々が居ます。
また少し不安になりますが、思いやりを頼りにまた人間関係を構築しながら歩みます。
扉を抜けてステージは変わっても、その子は、思いやり、によって人間関係を構築しながら進みます。
扉は年齢なりの、発達課題、とも言えます。
幼少期に親の思いやりに触れる経験を重ねた子は、小学生になったら小学生なりの発達課題をクリアし、
中学生、高校生になったなら其の年齢なりの発達課題をクリアしながら人生を歩みます。
手のひらには親からもらった、思いやりの鍵、があります。
親が自己矛盾を抱え、思いやることが出来なかったなら、子どもには鍵が無く、扉を開くことが出来ません。
思いやりの鍵を持つことが出来なかった子は、年齢なりの発達課題に尽く躓きます。
幼少期に思いやりを知ることに失敗し、
小学生では友達と健康的な人間関係を構築することに失敗し、
中学生、高校生、更には社会に出ても、家庭を持ったとしても、人間関係に悩み続けます。
人生の最初に、思いやりに触れることが出来なかったことが、
後々、その人の人生に深い影を落とすことになります。
転校しても、転職しても、
どこに行っても、いつも、
人間関係に苦しむのなら、
手のひらに、思いやりの鍵、は、
あるのだろうか?と、
立ち止まって考えても、
良いのかも知れません。
幼い頃に自分に向けられたのは、
本当の愛情、だったのかそれとも、
愛情もどき、ではなかったのか、
生きづらさを感じているならば、
考えてみることも必要です。
人生の責任は自分自身にある、
と私は思っていますが、
唯一の例外が幼少期です。
思いやりに触れたかった筈です。
でも触れることが出来なかった、
幼い子どもに非は有りません。
今、思いやりが解らなくても、
今、他者を思いやることが難しくても、
自分を責める必要は100%有りません。
知るために立ち止まった、
ご自身の勇気を、
手放しに讃えて欲しく思います。
誰が知らずとも、
生き抜いて、
気づいて、
立ち止まったあなたは既に、
尊い存在です。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
