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「学校の勉強なんて、社会に出たら役に立たない」の?

この言葉を聞くたびに、正直、腹が立つ。
いや、怒りというより、思考をなめられた感じがする。

三角関数は使わない?
歴史なんて暗記ゲー?
化学は不要?

そんな反論はいくらでもできる。
理系の職場に行けば三角関数は日常語だし、
現代の国際政治を考えるのに近代史と公民がなければ話にならない。
理科の知識がないから、洗剤を混ぜて塩素ガスを発生させて死ぬ人もいる。

でも、そんな具体例を並べること自体が、実は論点を外している。

問題は「役に立つかどうか」じゃない。
学校の勉強とは何なのかという話だ。


学校教育でやっていることの本質は、二つしかない。

ひとつは筋トレ
もうひとつは言語だ。

まず筋トレの話をしよう。

数学で方程式を解く。
理科で仮説と検証をやる。
国語で文章の構造を読む。
歴史で因果関係を追う。

これらはすべて、「その教科の知識」を身につけているのではなく、考えるための筋肉を鍛えている。

抽象化する力。
量で比べる力。
因果を追う力。
矛盾を見抜く力。
仮説を立てて修正する力。

ベンチプレスが「重い物を持ち上げる場面」だけのためじゃないのと同じで、これらは特定の職業のためではない。
世界を相手に思考するための基礎体力だ。

「使わないから無駄」というのは、
「腕立て伏せは日常で使わないから無意味」と言うのと同じくらい、ズレている。


次に、言語の話だ。

数式。化学式。年号。法律用語。経済指標。
これらは、ただの記号の暗記ではない。
世界のわからなさを、自分の側に引き寄せるための言葉だ。

たとえば、三角関数を知らなければ、角度と距離の関係を考えること自体ができない。
化学式を知らなければ、目の前の液体が何と何でできているかを語れない。
歴史の年号を知らなければ、出来事の順番と因果が霧の中に消える。

言語がないものは、考えられない。
考えられないものは、世界の外に置かれる。

「学校の勉強は役に立たない」という人は、
実はこう言っているのと同じだ。

世界を考えるための言葉はいらない

それは、無知の宣言ではない。
思考の放棄だ。


そしてここで、前の話とつながる。

世界を調べる。
答えが割れ、不確実さが残る。
その場所に立ち続けるには、筋肉と、言語がいる。

学校教育は、そのための装備を磨く場所だ。

「役に立つか」ではない。
「世界に立てるか」の問題だ。

それを「無駄」と言う人がいるなら、あなたはこう思っていい。
その人は、世界を殴りに行くための拳を、最初から捨てているんだよ。

(画像はgrok fireflyで生成)

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