51歳(デリヘル1年生)が言われる、「こういうところで働いているようには見えないね」。
年齢はいっているけど業界的にはひよっこデリヘル嬢なのでわからないのですが、「こういうところで働いているようには見えないね」は、利用客がいう定番の台詞なのでしょうか。めちゃ言われる。頻度としては新規客の3人に1人。私だけに起きている現象ではないように思う。
いま所属しているお店は待機室がなく、ほかの女性と顔を合わせる機会がないから、ほかの女性がどんなだか私にはわからないのです。
さて、7/5に「『セックスワーク』は犯罪か?」シンポジウムに参加してきました。申し込んだはいいけど直前まで行くのを迷っていたのですが、結果的に行ってよかった。帰り道に何度も「勉強になったー」と思いながら、鑑賞した映画、パネリストである河原梓水さん、武子愛さんのお話を反芻しました。それが、10日近く経ったいまもつづいています。
めちゃ行ってよかったです。河原先生、武子先生ともに現場(セックスワーク&福祉の現場)経験と研究活動に基づいた話で、響きまくりました。ただ、同時に危機感が。法案、通ってしまいそう。それはやっぱり「当事者」が「当事者である」ことを表明して、アクションしたり繋がったりがむずかしい→ https://t.co/2D22XBYbwE
— なのなのなぎこ@熟女デリヘ/ル1年生 (@nanonanonagiko) July 6, 2026
質疑応答の時間では活発な議論が交わされましたが、私はそれに入っていけず、閉会後、おふたりに感想を伝えたいと思ったけれど、それもできず。
なぜ議論に入っていけなかったかは、まず、会場では年配男性の不規則発言、いわゆる“弱者男性”の被害者意識に満ちた発言(と私は受け取りました)がつづいて、あまり心理的安全性を感じられなかったこと。
それから、私が聞きたいこと&言いたいことが、「セックスワーカー当事者であること」を表明したうえでないと伝わりにくいものであったこと。
私はこの春までは“当事者”ではなかったけれど、それでもセックスワーカーが自分がそうであると表明して声をあげるのは、とてもむずかしいことだと理解していた。理解しているつもりだった、と言ったほうがいいかな。当事者になって感じた、「私はここにいる」という表明のハードルの高さは、想像をはるかに超えていた。
だってそれは、ある意味、生死につながることだから。いやいや決して大げさではない。この社会で生きていくために、私は匿名の存在でいることを選ぶしかない。
話す相手がパネリストの方だけで、ほかの誰にも聞かれない空間であれば、そのことを言えたようにも思う。でも仮にその条件が整っていたとしても、直前で口をつぐむかもしれない。それは相手を信頼していないということではなく、私にとってそれだけ重たいことだから。
なので、オンライン上のフォームから匿名の質問を受け付けてくれたのは、とてもありがたかったです。
おそらく会場には、同じく“当事者”が少なくなかっただろうと想像する。でも、その人たちが一見して「あの人、セックスワーカーだ!」とわかるわけではない。なかには表明している人もいたのかもしれないけど、それは本人から言われてはじめてわかることで、見た目や立ち居振る舞いから察知できるものではない……と私は感じたんだけど、どうなんだろう。キャリアが長い人だと、「同業者かも」と勘が働いたりするのかな。
最初の話しに、戻ります。ほんの3か月強の勤務歴で、もう何度聞いたかわからない「こういうところで働いているようには見えないね」発言。そりゃそうだろ、とも思う。セックスワーカーとして生きていない歴が50年以上なのに、たった3か月強でいきなり、見るからにデリヘル嬢です!ってなったら、そっちのほうがびっくりだよ。まあ、その“見るからに”っていうのがわからない、って話しなんだけど。
あるお客さん(たぶん同世代。プロフィール上は私のほうが若いことになってる)に、「どういうところが“見えない”なんですか?」と聞いたところ、その人も「うーん、なんでだろうなぁ」とごにょごにょしていた。でもプレイが終わったのちに、「ああ、わかった。生活に困っているように見えないんだ」と結論づけていて、私もそれ聞いて、なるほどね、と腑に落ちるところがあった。
たしかに私がこの仕事に飛び込んだのは、いま現在「すごく困っている」からというより、将来の不安が大きすぎるからというのと、本業が息苦しくてほかの空気を吸ってみたかったから、なのです。
ただ、いかにも「生活に困っているように見える」というのも、ひとつの偏見なんじゃないかと思う。セックスワークとは別の話になるけど、ずっと前に読んだ記事だか本だかで、「女性の困窮は目に見えにくい。女性は困っていても、しまむらや100均コスメなどを駆使して、身ぎれいにするから」といったことが書いてあった。セックスワークは、容姿が重視される仕事(もちろんそれだけじゃないけど)であることは間違いがないので、だいたいの人はそれなりに身なりに気を遣っているだろうことは想像に難くない。
これって“らしさ”の話でもあると思う。私は“らしさ”を求められるシーンに出くわすと、その瞬間にピリッと警戒する。
もう一度、シンポジウムの話に戻ります。当日の目玉として、映画「ぜんぶ売女よりマシ」の鑑賞があった。“買う”側が処罰され“売る”側は保護・救済される法律のあるスウェーデンで、DVから逃げ、たった2週間セックスワークをしたシングルマザーのマリーさんが、子どもを奪われ、会わせてすらもらえず、誰からも守られず、最後はDV元夫によって殺害されるという、しんどすぎるドキュメンタリー作品です。
罰せられるのは“買う”側のはずなのに、マリーさんが社会的に制裁されているように見える。これは福祉の“考え方”によるところが大きいと、パネリストの武子先生から解説があり、その後河原先生との対話で「スティグマの強さ」「彼女は“被害者らしい”像からはずれていた」という指摘が出てきた。マリーさんは“もの言う女性”で、たびたび法律や制度のおかしさについて発信していたから、しおらしくていかにも気の毒な被害者像に合致しない。
ほら、“らしさ”だよ、と私はピリッとした。
らしさに当てはまっていれば守られて、当てはまらなければ排除される。もし仮に日本でも買春処罰法ができてしまえば、私はおそらく“被害者らし”くない側に入れられる。“らしい”側に入りたいわけではないし、そもそも「買春処罰法」に守られたいわけでもない。でも、そうやって仕分けされることで、下手すると生死まで分けられるかもしれないから、怖いのです。マリーさんがそうだったように。
“らしさ”を決めるのは誰なんだろう。
私のような“当事者”は、メディアなどには出てこない。というか、メディアの人たちが“いる”と思っていない、だから関心を払われない、「記事にできる」とも思われない。
だって、悲惨な生育歴もないし、生きづらさにつながるハンデもない、苛烈な性暴力の被害者でもない、奨学金という借金も背負っていない、シングルマザーでもない(そもそも子どもがいない)、ホストクラブには行ったこともない、DVも受けていない、今月の家賃や今週の食費に困っているわけでもない。まあ、ひとつあるとすれば、就職氷河期どまんなか世代で、長らく非正規雇用だったということくらい?
じゃあなんでこの年齢でデリヘルに参入したのかについての、わかりやすいストーリーがない、つまり“らしく”ない。
別に私だけだとは思わない。ほかにも同じような人が大勢いるはず。でも“らしく”ない当事者がみずから表に出てくることも、そうそうないわけで、だから簡単に“いないこと”にされ、声も聞かれない。
そもそも、そんなに“らしい”当事者ってどのくらいいるんだろうね。セックワーカーの多くは、“らしく”ないんじゃないの?
というのも“らしさ”を決めているのは、当事者ではないから。
メディアは、つらい境遇にある“か弱い”女性が、自分ではどうにもできない事情から、ほんとはしたくないけれど泣く泣く性風俗の仕事に従事しているとか、ホストによって性風俗に“堕とされ”たとか、当事者をエモーショナルに取り上げ、それによって“らしさ”を作り上げ、強化していく。読む側も「なんてかわいそうな被害者なんだ!」「風俗は悪だ!」とエモーショナルに受け取る。
そうした困った境遇にいる人がいる事実は、否定しない。でもそれが全体像なのか、“らしさ”のど真ん中なのかは、発信する側も、受け取る側も、これを根拠にして法律を変えようアクションする側も、アクションを受け止める側も、ちょっと立ち止まって考えたほうがいいんじゃないか。
(ついでに、すでにあるのに機能していない法律、制度が問題で、買春者を処罰したところで、その法律や制度が変わらないかぎり、行政や福祉につながらない人は多いままだろうってことも、考えたほうがいいんじゃないか)
私自身について強いてひとつ加えるなら、「こういうところで働いているようには見えな」い、つまり“らし”くないのは、私のなかにいまだ葛藤や躊躇があることも影響しているのかもしれない。
それでも、デリヘルが私のなかで確実に、ひとつの「仕事」になりつつある。外の世界の人たちが作った“らしさ”はなくても、私はここにいるんです。
